ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 5
2016.6.12 up

真っ赤な、あんな綺麗な色をした丸いものを見たことは、後にも先にもありません

西冨 房江Fusae Nishitomi

神奈川県在住 被爆者

西冨 房江さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から4キロ地点の宇品で被爆された西冨房江さん(91歳)。
当日の様子や、今伝えていきたい想いを伺いました。

目次

  1. 8月6日当日のこと
  2. 語り始めたきっかけ
  3. 今伝えていきたい想い

8月6日当日のこと

8月6日のことを教えて頂けますか

西冨 房江さん

私は当時、宇品にある「暁2940部隊」という軍隊で管理部として働いていました。
8月6日は、朝8:00に外で朝礼があって終わった後に2階の仕事部屋に戻りました。 書類や筆箱を机の上に置いた瞬間、ものすごい風が吹きまして、天井の梁の上に先ほど置いたものが皆乗ってしまったのです。 それでびっくりして、ぱっと窓の外を見た時に、原爆を見ました。
真っ赤な、あんな綺麗な色をした丸いものを見たことは、後にも先にもありません。
でも「これは綺麗だけれど、良くないものに違いない。」と反射的に感じました。 窓の方には行かないで、防空壕に避難しようとパッと背を向けた時に強い熱を感じました。 すごく熱かったです。物の影になっていたので、大きな火傷はなかったのですが、もし隠れていなかったら違っていたのだろうと思います。

熱線を浴びた後、防空壕に逃げることが出来たのですか

西冨 房江さん

はい。その後、防空壕に行きました。 宇品は爆心地から少し離れているため、市内よりは被害が少なく、すぐ火事になることもありませんでした。
私はそれから軍人さんたちの介護の仕事をしました。 「凱旋館」という、以前はピアニストが演奏に来るような立派なホールが、当時は救護所になっていて、逃げてきた兵士たちに水をあげたりお粥を食べさせたりしました。 その時、倒れている人の側に立っていらっしゃった女の人が、突然私を呼びました。女の人は、私が軍隊で働く前に代用教員として勤めていた国民学校高等科の先生の奥様でした。 倒れている先生は、まっすぐだった鼻が真ん中から半分に割れていました。「もう話しかけても何も答えてくれないんですよ。」と、奥様が仰っていたのを今でも覚えています。

西冨さんご自身は、救護をされた後どのように過ごされたのですか?

西冨 房江さん

その晩は広島が燃えているからという理由で、軍隊に泊まることになりました。 翌日、友達と一緒に自分の家を探すため、実家のある舟入まで戻りました。 御幸橋まで来たとき、広島がきれいに何もなくなっていて「一望千里」という言葉はこういうことなんだと思いました。

どのような経路を通って帰られたのですか?

西冨 房江さん

市内をずっと歩いて帰りました。 爆心地に近いところに行くにつれて、死体が道路にいっぱい倒れていて、見たくないと思いながら歩きました。 御幸橋を渡った辺りでは灰色だった死体がどんどん、どんどん様子が違ってきて、爆心地付近では黒焦げなんですね。 髪の毛もちりぢりに縮れて死んでいる。そういう人たちを目にしました。 「ああこの人たちは、昨日熱いと思った爆弾のためにこうなったんだ。どんなに熱かっただろうな。」と、胸が痛くなりました。

西冨 房江さん

それから少し行ったところで、顔が倍くらいに腫れ上がった人たちの死体がありました。 後になって、その人たちは火傷をしていたわけではなくて、人間の体の水分が強い熱のために膨張したのだということが分かりました。 そういう情景を見ながら爆心地付近を歩きました。とてもじゃないけれど、涙が止まりませんでした。 相生橋では、川に浮んでいる人たちがいました。 後に、この情景を描いた絵を見ると横になっている姿の絵が多いですけど、私が見たのは頭がびっしり並んでいるというものでした。 「どうしてここにいるんだろう。熱くて飛び込んだものか、爆風で落ちたものかどっちなんだろう。」と思いました。

西冨 房江さん

そこから少し歩いたところで、着物を着て赤ちゃんを抱っこしたお母さんが防火用水の中に入っていました。 生きているのかと思いましたが、そばに行ってみると生きてはいない。 どうやってそこに入ったのか、飛ばされたのか、それすらも今もって分かりません。自宅に着いた後、私はまたすぐ軍隊に帰って救護をしました。

市内を1日歩かれたということですが、その後、西冨さんのお身体に放射能の影響はあったのですか?

西冨 房江さん

それが、不思議なことにないのです。 私と同じ「入市被爆」の方たちの中には、病気をして苦しんでいる方がいらっしゃいますが、私はそういうことがなくて・・・。 両親から丈夫な身体に産んでもらったからなのでしょうか。 でも、土橋で被爆をした父は火傷もしてないのに敗戦の日の15日の朝に亡くなりました。 6日以降、姉の疎開先にいて、食欲もなく死んだような感じになっていました。 私が人からもらったぶどうをジュースにして飲ませた時「あー、うまかった。」と久々に声を出したことを覚えています。父の最期を話す時は涙が止まりません。

語り始めたきっかけ

被爆証言を始めたのはいつ頃ですか?

平成14年からです。

町内自治館文化部の依頼で、神奈川県原爆被災者の会へ行き、初めて説明を伺いました。
会のアンケートに「被爆証言を積極的に話しに行きたい。」と伝えたことで「浜友証言の集い」に参加し、様々な場所で話すようになりました。

今伝えていきたい想い

今、小学校、中学校、高校など色々な場所でお話しをされていらっしゃると思いますが、 そういう方達に向けて、戦後70年という時代に、一番何を伝えたいと思われますか?

西冨 房江さん

やっぱり「戦争というのは良くない」ということですね。
私は自分が原爆を受けているので、その怖さを実感しています。
現在は、インターネットで自由に自分の考えを発信出来る時代です。若い人たちがそれぞれの場で、世界が平和になるように動き、願って欲しいと切望しています。
私も、命のある限り自分の使命だと思って少しでも体験を伝えていきお役に立てればと思っています。

2016年6月 取材