ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
受け継ぐ
Vol. 3
2015.6.27 up

英語に翻訳することで、一人でも多くの人に伝えたい。

HIROSHIMA SPEAKS OUTヒロシマ スピークスアウト

広島を拠点に平和推進活動を担う団体

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
被爆証言の手記や本・手紙などを英語に翻訳し、発信しているHIROSHIMA SPEAKS OUT(以下 HSO)さん。
活動の内容や想いを伺いました。

目次

  1. HSOの活動内容
  2. 翻訳時の苦労
  3. HSOの今後とメッセージ

HSOの活動内容

HSOは代表の浜井さんが中心となり活動をされている団体ですが、活動をはじめられたきっかけを教えていただけますか。

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

私自身は関西出身で、関西はどちらかというと部落などの差別問題を中心とした平和学習が主でした。
広島や原爆のことは歴史の1ページとして知っていましたが、広島に来てはじめて本当の意味で「知ってしまった。」と感じ、これは以前の私のように、被ばくの実相を知らない人たちに、伝えなければいけないと思いました。
広島の中では、被爆証言を直接沢山聞くことが出来ます。それを英語に訳すことでもっと世界に発信できるのではないかと思いました。また、出版されている手記や手紙、色々なものを探して、訳すことが出来ればと。そして周りにいる友人たちに相談したのがきっかけです。
私達が取り組んでいるのは、日本語を英語にするだけでなく、英語を日本語にもしています。そして両言語で国内外の方に発信しています。

浜井さんのお声掛けから広がっていったということですね。

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

はい。いつも思うことは、私一人だったら今までやってきたことの十分の一も出来なかったのに、これだけ英語やITの能力のある人が集まったら、こんなに大きなことができるんだという感謝の気持ちです。
現在メンバーは20人ほどいらっしゃいますが、それぞれが、自分が動ける時にできることで参加してくださっています。

メンバーの皆さんは、HSOの前にこういった平和に関する活動に参加されていたのでしょうか?

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

大なり小なりそういうことに関わっていた人は多く、浜井さんの趣旨に賛同して「他の方にも声をかけましょう。」と広がっていった感じがします。

この中で広島出身の方はいらっしゃいますか?(メンバーの方々が手を上げる)ほとんどの方ですね。
広島ですと、小さいころから教育で学んでいたりして、こういった戦争・平和という大きなテーマのお話がきても、戸惑うことなく参加できたということなんでしょうか。

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

私は、職場の通訳さんから紹介されて参加しました。
実は、この活動に携わるまで、小学校1年生の時からずっと平和学習を受けてきたので
「もういいじゃないか。」という嫌悪感があったのも事実
です。
仕事で東京に住んでいた時も、周りは誰もしらない、自分も関わる接点がまったくなかったので、知識以上深く考えることありませんでした。
HSOでは、翻訳の際に一字一句拾うので細部が分かり、全部が心に迫って情景が浮かび・・・深く考えさせられます。

翻訳時の苦労

今はどんな本を翻訳されているのですか?

2014年11月に今田洋子さんという方のグループが出された「ヒロシマの家」という本を翻訳しています。
この本は、家を失った被爆者の方のために21軒もの家を建ててくださった、フロイド・シュモーさんというアメリカ人の足跡を記した本です。

一番初めに翻訳されたのはどんなものだったのでしょうか?

「流灯」という手記です。
原爆で亡くなった国民学校の子供の親たちが書いた手記で、これは絶対翻訳して発信しなければと思いました。

翻訳する際に苦労することがあれば教えてください。

日本人なので字面はわかるのですが、その人の気持ちが本当に掴めているのか考えることがあります。
いつも「この文はこういう気持ちだ。」と読み取るところから始めます。方言や今はない地名、名前が変わっている場所。
昔特有の言葉使いだったり、被爆の言い回しも人それぞれです。
やはり、ある程度知識として広島のことを知っておかないとわからないことが多くあります。私たちも訳しきれていないかもしれません。

翻訳する際、凄惨な場面もでてくると思いますが。

残酷な内容は出てくることはあります。ただ、私が思うに、被爆者の方もあまりにつらいことは書けないのだと思います。

HSOメンバー)私は8月6日のとうろう流しで参加を呼びかけるお手伝いをしたことがあるのですが、前を通る方に声をかけたら「本当にごめんなさい」と言う方がいらっしゃいました。「もう思い出したくない。」と。

実際、式典が始まる前の朝の四時ごろに平和記念公園に来られたり、式典が終わってみんなが帰った後に来られる被爆者の方も多いですよ。

HSOメンバー) 手記を書かれる方は高齢の方が多く、自分はもう長くないから、ということで、今まで文章を書いたことがないような方が書いています。素朴な文章なだけに、伝わってくるものもありますが、訳すのは本当に難しいです。

書いてあるものを、そのまま直訳するだけでは本当の意味を伝えきれないということですね。

今はまだご健在の被爆者の方がいらっしゃるので「これはどういうことですか?」と確かめられますが、これから聞く人たちがいなくなると、訳すのは、さらに難しくなると思います。

HSOの今後とメッセージ

HSOのホームページを見た海外の方から感想を頂くことはありますか?

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

ドイツとフランスからが多いです。特にドイツが多いですね。
自分が本を書く際に使わせてほしいとか、講義で使わせてほしい、という問い合わせもありました。 海外だけではなく、日本からも感想を頂くことがあります。
北海道の日曜学校の先生からは「初めて知った。子供たちに原爆に関する話をしたい。」という内容の感想を頂きました。

私たちの世代が「知った」後に、どのようにアウトプットし、語り継いでいくか、アドバイスがあればお願いします。

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

一人で出来ることはとても小さいです。
でも、自分が出来ることを出していけば、周りが助けてくれ、支えてくれる。
そしてそこから広がりも出てくると思います。

ありがとうございます。今後の団体の活動についてビジョンを教えてください。

HIROSHIMA SPEAKS OUTさん

実際にお会いする被爆者のお話や、残された手記などを英語に翻訳し、日英両言語でアウトプットすることで、出来るだけ多くの人に、原爆がどういうことをもたらしたか、どれだけ怖い兵器なのかを伝えていきたいです。
伝えていくということが、核兵器廃絶のために大事だと思っています。

2015年6月 取材