継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 16 2019.6.21 up
8月6日のお産をお手伝いするときには、これからお母さんになる人たちに「もしよければ一緒に黙とうしてくれる?」と、声をかけています。
神戸 美和子Miwako Kanbe
東京都町田市在住 被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
2019年の継ぐ展は、東京都町田市生涯学習センターで行います。
そこで、町田市にお住まいの被爆者神戸美和子(81)さんに原爆当日の出来事や、戦前戦後の広島の様子をお伺いしました。
目次
戦時中の広島の様子
神戸さんは広島出身でいらっしゃいますが、いつから町田市にお住まいなのでしょうか?
昭和37年からです。
町田に団地が出来始めた時から住んでいるので、50年以上住んでいます。
広島で原爆にあわれたのは何歳の時ですか。
7歳の時です。
当時は国民学校の2年生で、次の年の3年生から学童疎開があって、私は遠足に行く気分で「来年になったら学童疎開に行ける!」って、喜んで待っていたのを覚えています。
お住まいは、広島のどの辺りでしたか?
東雲(しののめ)町という場所に住んでいました。
当時は何人家族でしたか?
母と年の離れた兄2人と私の4人家族です。
父は私が4歳の時に急性肺炎で亡くなっています。
1番上の兄と私は19歳差、2番目の兄とは17歳離れていて、私は末っ子でした。
1番上の兄は既に関東軍として満州に出征しており、昭和20年の3月に2番目の兄が出征しました。
出征って分かりますか?兵隊さんに行くことです。
母が「明日お兄ちゃんを広島駅まで送っていくけど、お兄ちゃんと別れる時、絶対涙を流してはいけないよ。涙は不吉だからね。」と言ったのを覚えています。
当日、出征する兵隊さんたちが広島駅まで行進していくんだけど、近所の大正橋で兄が列に合流しました。
その時、私ににっこりと笑いかけてくれたのを見て「お兄ちゃんと、これで会えなくなるんだ。」と思ったらどっと涙が出てきたの。
そうしたら母が私の手をギュッとつねって「泣いちゃだめ!」って怒られました。
出征に行く時は行進しながら駅まで行くんですね。初めて知りました。
そうですね。行進を見守る周りの人たちは何度も「万歳」と言って、日の丸の旗を振っていました。
軍歌を歌いながら見送るの。
兵隊さんになる人は、軍隊の中の偉い人に名前を呼ばれたら、一度敬礼をして列に入って歩いていきました。
もう広島駅はすごい人でしたよ。
みんな汽車に乗って広島を発つから。
出征していく人の中には女性もいました。
濃紺の帽子と制服を着て、黒い靴を履いた看護婦さん。
おばあちゃんに手を引かれていた3歳くらいの女の子が見送っていました。
当時の戦争は、こんな風に小さな子を残して戦地に向かい、天皇様に命をささげるものだったのです。
原爆前の広島の様子は神戸さんから見てどんな雰囲気でしたか。
広島は、戦時中は爆撃が本当になかったの。だから、とても無防備だったわね。
「広島は兵隊さんの町だから、他の場所で空襲があっても、広島だけは残る。」と私の親や近所の人たちは噂をしていました。
鬼畜米英と言って、アメリカとイギリスは鬼だと教えられて、神風が吹くから絶対に日本が勝つ、と私も信じていました。
そういえば、八丁堀のあたりに爆弾が落ちたのをわざわざ見に行ったことがあります。
爆弾が落ちたのを「珍しい」と思って見に行かれたということですか?
そうそう、すごく大きな穴が開いていてね。
「あ、爆弾が落ちると、こんなに穴が開くのか」って驚いたの。
それくらい空襲が無かったということなんですね。
無かった。空襲警報が鳴ってもすぐ解除になるし。
原爆前に一度B29を大正橋で見た時も、知らないおばさんから「B29が来たから早く隠れなさい!」と言われたのですが「B29って何?」と言うような感じでした。
学校でB29については習わなかったんですか?
あんまり覚えていないわね。
ただ学校では、花の絵を描くと飾られなくて、飛行機の絵や「兵隊さん万歳」とか描くと、貼り出されていたのを覚えています。
子どもって貼り出されると嬉しいじゃない?「今度は兵隊さんの絵を描きなさい」ってよく先生に言われていました。
8月6日のこと
今までのお話から、8月6日当日は、神戸さんは本当に無防備だったということでしょうか?
少なくとも私は無防備だった…私はね。みんなはどうか分からないけれど。
私は爆心地から3.8 kmの東雲町にある自宅
で被爆しました。
家の東側の縁側にいて「家族あわせ」っていうカルタで遊んでいたの。
母はもんぺを履いて、大きな麦わら帽子をかぶって近所のぶどう畑のお手伝いに行っていました。
朝、隣に住んでいるヒロコちゃんって言うお姉ちゃんが、鍬を担いで女子商業学校へ行くのを見かけました。
鍬を担いで学校に行くのは変だと思うでしょう。
当時は学校では勉強をせずに勤労動員をしていたから。
私が「ヒロコちゃん、行っといで~」って挨拶をしたら、ヒロコちゃんは「行ってくるけんね~」って答えてくれたんですけど、それを最後にずっと帰ってこなかった。
ヒロコちゃんの妹で4歳になるキョウコちゃんは、その日家に遊びに来ていました。
6日は、学校には行かれなかったのですか?
午前と午後に授業が分かれていて、私はお昼からお寺で学ぶことになっていました。
原爆が落ちた時は、ピカーッと赤紫の光が頭の上から覆いかぶさるように光って、その後にすぐ爆風が来たのね。
ドーン!ってすっごい音がして、「うわぁ!」って叫んだ途端にガラスが私の方に飛んできて、全身にガラスが刺さったの。
正面から爆風を受けたんですか?
そうね。当時「簡単服」と呼ばれていたワンピースを着ていたから、洋服から出ている所はみんなガラスが刺さった。
それからしばらく気を失ってたみたいなのよね。
母がすごい勢いで「しっかりしんさい~!しっかりしんさい~!」と叫びながら私をゆする声で気がつきました。
私は家に遊びに来ていたキョウコちゃんのことが気になったので「お母ちゃん、キョウコちゃんは無事!?」って聞いたの。
見ると、Vの字に折れた台所の柱の真ん中に、キョウコちゃんが立っていた。
立っていた?
立っていたの
(笑)。なんにも怪我をしていなくてぼうっと立ってた。
家の中はもうぐちゃぐちゃですよ。爆風で。
キョウコちゃんは無傷だったけど、1週間くらい経ってから原爆の急性症状が出て、紫斑が出たり、髪の毛がごそっと抜けたりしていました。
神戸さんに刺さったガラスはどうしたんですか?
大きいガラスは母が手で抜きました。
薬品は赤チンだけしかなかったから、大した治療はできませんでした。
その時は、みんな大人も子どもも「救急袋」というものを持っていたのね。
救急袋には何が入ってるんですか?
赤チンとかね、シーツをやぶって作った包帯とか…。
その救急袋の包帯で、母が私をミイラ男みたいにぐるぐる巻きにした。
その後、外へ出たらちょうど、大きな真っ黒い煙の柱が空に向かって上がっていくところだった。
だんだんだんだん上っていって、先が丸くなって、あの原爆雲になっていったの。
有名なキノコ雲ですね?
そうです。私は「お母ちゃん、あれ何!?」って聞きました。
母は「恐ろしいことになったね。広島駅前のガスタンクが爆発したんだ」って。
誰も原爆が落ちたなんて思いもしないでしょう?
近所の人たちは「広島市内には悪いガスが発生してるから、女、子どもは行ってはいけない。」と言っていました。
原爆後の広島の様子
神戸さんに原爆の症状は出ましたか?
はい。具合がだんだん悪くなってくるのよ。髪は抜けるし、体がものすごいだるいの。
「お母ちゃん、だるいよ、だるいよ」っていつも言っていました。
母は食べて力をつけないといけないと言って、家の庭に作った畑から出来た夏野菜とか芋とか、いっぱい食べさせてくれました。
家の近くに猿猴川という大きな川があったので、引き潮になると採れる貝とか、そばにくっついてる牡蠣とか、小さな雑魚を採ってきては、とにかく私に食べさせたの。
原爆の後にですか?放射能は大丈夫だったんですか?
放射能の塊を食べて、元気になるわけがないわよね。
母は当時を思い出す時にいつも「いや~、悪いことをしたねぇ…。お母ちゃんはね、あんたを助けようと思って一生懸命ね、嫌がるあんたに食べさせたけど、あれ、全部放射能に汚染されとったね」と言って謝っていました。
神戸さんは原爆の後、広島市内には行きましたか?
はい。原爆投下後から1週間経って、牛田に住む知り合いを探しに、母と市街地へ入りました。
広島駅の駅前を通って、牛田まで行くんだけど、全て焼けていて、何にもなくて、真っ平だった。
普段は遠くに見える福屋(デパート)が、目の前に見えた。
それくらいもうなんにもなかった。
市内電車や五右衛門の風呂釜がゴロゴロ転がっているのがすごく印象的で、水もあちこちからジャージャー出ていた。
母が「あそこを見てごらん」って指をさした方を見ると洋服の切れ端みたいなのがあって、よくよく見たら死体で・・・。
「ぎゃー!」って叫んだのを覚えています。
原爆後は本当にたくさんの死体があったと聞いています。
爆心地から4kmくらいのところに県の師範学校があって、そこの土手の下に、兵隊さんたちが来ては大きな穴を掘って、広島市内で集めた死体を焼いていたの。
大八車って知ってますか?
リヤカーみたいなものですか?
そう。大きな輪が両方についていて、ひいていく荷車ね。
朝8時ぐらいになると兵隊さんがその大八車に死体を荒縄で縛って山のように積んで、ギッシ、ギッシ…とひいてやってくるの。
私たち子どもはみんな土手に上がってそれを見ていた。
背の高い死体が荷崩れして足がぶらん、ぶらん…と揺れるのを見て、最初は怖がっているんだけど、子どもってね、恐ろしいのよ。
だんだんとそういった光景が普通になってきて「今日は何台来たね。」とか言って平気になってくるの。
焼け残った死体にはウジが湧いて、次の朝はハエが真っ黒になるほどたかっていた。
私たちは下駄をはいた足で、死体へ向かってタッタッタッタ~ッと走っては飛び越え、ハエが驚いて空に舞い上がるのを見て遊んでいました。
産婆になると決めた7歳の決意
原爆から2日くらいたった後、小さいおにぎりが1人2個ずつ配給されたの。
今のコンビニで売っているようなおにぎりじゃないのよ。
7歳の子どもの手の中に入りきるぐらいのおにぎりだから、きっと小さなものだったと思う。
あの頃、白米のご飯を「銀飯(ぎんめし)」って言ってた。
母が、鍋の蓋に配給の銀飯を4つもらってきて「昨日、貯金局の地下室で死体の山の中から、赤ちゃんが生まれたらしいのよ。女の子でね、元気のいい産声が上がったみたいなの。こんなに嬉しいことはない」って言ったのね。
「死人の中から産婆さんが這い出てきて『私が赤ちゃんを取り上げましょう』って、取り上げてくれたんだって。産婆さんは偉いねぇ。あんたも大人になったら、人様のお役に立てる人になりんさいよ。」
それを聞いて、私は「将来は人様のお役に立てる産婆さんになろう!」ってその時思ったの。
「7歳の決意」って言うほど大層なものではないけれど、今の職業についたのはこの出来事があったからだと思う。
兄が連れてきた顔半分がケロイドのお嫁さん
山口の部隊にいた2番目の兄は、原爆の年の暮れに帰って来ました。
私が小学校五年生の時に「結婚をしたいから、明日相手を連れてくる。」と言ってお嫁さんを連れてきたんだけど、兄が連れて来たお嫁さんの顔半分はケロイドで覆われていた。
戦後、広島へ出張に行く男性のお母さんたちは「夏でも長袖を来ている娘とお付き合いをしてはいけないよ。長袖はケロイドを隠せるから。結婚もだめだよ。」と言って注意をしていました。
それがまさか、私たちのところにケロイドだらけの人がお嫁に来るなんて思いもしなかったから、もう一族郎党が仰天して大反対をしました。
それでも兄は「どうしてもこの人と結婚する。」と譲らずに結婚したの。
お嫁さんは21歳の時に、爆心地から700メートルの竹屋町にある小さな軍需工場で働いていた時に被爆したそうです。
体育館のような場所に15歳の妹と収容されて、むしろの上に寝かされて、お父さんが自分の名前を呼びながら探しに来ても火傷が酷くて口を動かすことすらできなかったと言っていました。
妹は8月9日の早朝に亡くなったそうです。
岡山の中学校で受けた差別
私が小学校六年生の時に母の生家がある岡山県の高梁というところに兄と嫁と母と私の4人で移住しました。
しかし、兄嫁のケロイドがすぐ地元の人たちの奇異の目にさらされたので、兄達はすぐ広島へ帰ってしまいました。
そして中学校一年生の時に朝鮮戦争が始まりました。
私はこの戦争でまた原爆が使われるんじゃないかと不安に思って、担任の先生に「この戦争でまた原爆が使われますか?自分は広島で原爆にあいました。戦争をやめなさいって、私たちが大きな声で言ったら戦争は止まりますか?」と聞きました。
先生は軍隊から帰って来た人で、父のいない私から見たらお父さんみたいな存在でした。
「原爆が使われるかどうかはわからない。声を上げても戦争は止まらないだろうね。」という答えを聞いて、いてもたってもいられなくなった私は「学校の同級生に原爆の話をしてもいいですか?」と尋ねました。
戦後、原爆にあったことを隠す人が多い中、神戸さんは同級生にお話されたんですね。驚きました。
はい。その時は同級生たちに原爆がどんなに恐ろしかったかということを知らせて、みんなで「戦争を止めよう」という声をあげれば、また原爆が落ちるのを止められるのではないかと本気で思っていたんです。
ホームルームの時間に私は自分の被爆体験や原爆の恐ろしさについて話しました。
話を聞いた同級生の反応はいかがでしたか?
話した直後は「原爆が落ちた時はどんな様子だったの?」というような質問が一部の子たちからありました。
しかし、次の日、私の周りからパッと友達がいなくなったのです。
私が歩くと周りにいる人たちがわーっと逃げて行くようになりました。
友達の一人に、呉服屋のトモちゃんという色白で背が小さくてきれいな女の子がいました。私はトモちゃんが大好きでした。
トモちゃんも、私のことを「みーちゃん」と呼び、よく遊んでいました。
しかし、その子でさえも、私が話しかけると逃げていくのです。
私は、嫌がるトモちゃんの手をぐっと掴んで、木の下まで引き摺っていきました。
「どうして私はみんなに嫌われるの?」と聞くと、トモちゃんは泣きながら「あんた原爆にあったでしょ?あんたの手から放射能がうつって死ぬって誰かのお母ちゃんが言ったから、あんたのそばには近寄らんようにしている。」と怖がりながら答えるのです。
私はそれを聞いて泣きながら家に走って帰り、母にそのことを話しました。
母は真剣な顔をして「原爆の時に被爆者を助けた人や兵隊さんが2次被曝で死んでいるの。そんなことをラジオや新聞で毎日言っているから、みんな不安なんじゃろう。あんたはこれから先、誰にも原爆のことを言っちゃいけんよ。わたしたちはケロイドがないんだから黙っていたら絶対誰にもわからん。被爆者だと人に言ってはいけないよ。」と言い、指切りげんまんをしました。
それから戦後40年まで、私は自分が被爆者であるということを話したことはありませんでした。
兄嫁との約束~戦後40年の証言
戦後40年に原爆について話すきっかけになった出来事はどんなものでしたか?
この年、明治大学で全国のお母さん達が集まる「母親大会」という集会がありました。
その分科会で「語り継ごう戦争体験」というものがあり、参加をしたのがきっかけです。
壇上では満州からの引き揚げの話、北海道での戦争体験の話などいろんな方がご自身の体験を話されていました。
司会の方が「もうお一人くらい、どなたかお話をされませんか。」と尋ねた時、私は手を挙げました。
他の方が戦争体験を話されているのを見て、ご自身も話そうと思われた、ということですか。
それもあるんだけど、兄嫁との約束が大きかったと思います。
どんな約束ですか?
原爆でケロイドを負った兄嫁は40歳の時に若くして子宮体部がんで亡くなりました。
亡くなる数日前に、私は3歳になる自分の息子と病院へ見舞いに行っていました。
姉は腹水が溜まり大きなお腹になっていて苦しそうにしていましたが、私の子を見て「あんたこの子が可愛い?」と聞きました。
私が「自分の子だからもちろん可愛いでしょ。」と答えると、「この子を原爆で殺させないで。世の中には、今でも原爆がたくさんあるっていうじゃない。いつどこで、使われるかわからない。どうしてあなたは声を上げないの?」と言うのです。
私は「自分の子が昔の私のように差別をされたら嫌だから、原爆については話したくない。」と言いました。
すると「自分のことだけを考えないで。原爆の恐ろしさを世の中の人たちに知ってもらいんさい。このケロイドの体を写真に撮って見てもらいんさい!」と言って服を脱ぎ始めたのです。
私はあわてて「お姉さん、大丈夫。私、いつか話すから!」と伝えました。その数日後にお姉さんは亡くなりました。
そんなことがあり、彼女の言葉はずっと私の心に残っていました。
手を挙げた時は「もしここで話さなかったら、私は一生被爆したことを隠し通すだろうな。」という思いがあったからです。
なんだか姉がすごい勢いで私の背を押してくれたような気がしました。
司会の方からマイクを渡され、立ち上がった瞬間、私はわーっと泣き出してしまいました。
「私、実は広島で被爆しました。姉から被爆をしたことを語れと言われていましたが、今まで語れないできました。」
こんな風に話し始めて、初めての証言は、周りの人たちから応援をされながら行いました。
それからは、いろんな場所で原爆について話すようになりました。
次世代への継承
今、小さい頃から夢だった産婆さんという職業に就かれて、新しい命の誕生に立ち会われていると思うのですが、次の世代に伝えていきたいことはありますか?
8月6日のお産をお手伝いするときには、これからお母さんになる人たちに「もしよければ一緒に黙とうしてくれる?」と、声をかけています。
ある時、双子を出産するお母さんが、平和記念式典のテレビ中継を見ながら一緒に黙とうをしてくれたことがありました。
そのお母さんは、その日から毎年、双子たちと一緒に黙祷をしてくださっているそうです。
素敵なお話ですね。
神戸さんのお話は、子供の純粋な目で見た風景や感情を素直に伝えてくださっているので情景が浮かびやすく、心に入ってきやすいと感じました。
今年(2019年)の8月6日に町田市生涯学習センターのホールで被爆証言をされるということで、その時にまた、お目にかかれるのを楽しみにしています。
今日はありがとうございました。
2019年6月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。