ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 15
2019.6.8 up

人を大事に、自分も大事に、物も大事にしよう。思いやりがあれば差別は生まれない。君達の隣にいる友達は宝だよ。

李 鐘根(イ・ジョングン)Lee Jongkeun

 被爆者

李 鐘根(イ・ジョングン)さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
在日韓国人二世の被爆者 李 鐘根さん(91)は、2012年にピースボートへ乗船したことをきっかけに韓国名を明かし、被爆体験を語り始めました。幼少期から受けた差別のこと、8月6日の出来事についてお伺いしました。

目次

  1. 李さんご自身について
  2. 韓国から日本へ。小学校で受けた差別
  3. 吉和村から呉へ
  4. 8月6日当日のこと
  5. 帰宅~ケロイドの治療
  6. 戦後の広島~証言をするまで

李さんご自身について

8月6日の証言をされる中で、李さんが特に伝えていきたいと思われていることはなんですか?

李 鐘根さん

私は在日韓国人二世として8月6日を体験しました。
原爆の被害者は日本人だけではなく、韓国、アメリカ、オーストラリア、中国、フィリピンなど、外国の方もたくさん含まれていたという事実を伝えていきたいと思っています。
また、日本で生まれ育ちながら「朝鮮人」と呼ばれ、差別をされた経験も同時に伝えていきたいです。
差別でいかに私たちが苦しんだか。
差別の残酷さを、次世代を担う子どもたちへ伝えることができたらと思っています。

李さんは現在おいくつでいらっしゃいますか?

李 鐘根さん

90歳です。2019年の8月で91歳になります。

李さんの家族構成を教えてください。

李 鐘根さん

両親、姉、私、妹、弟が6人。11人家族で、私は9人兄弟の長男です。

韓国から日本へ。小学校で受けた差別

ご家族が、韓国から日本に来られるまでの経緯を教えて頂けますか?

李 鐘根さん

はい。1910年に日韓併合がありました。
両親は韓国の田舎に住んでいたのですが、巡査という肩書で入植してきた日本人が、鳥や食べ物を勝手に取っていくことが度々あったそうです。
しかし、日本の支配下で立場が弱かったため「やめてほしい」とは言えなかった。
そんな事が続き、両親は、ここには居られないと判断して、日本に行くことを決意したそうです。
当時、日本に入国するためのパスポートは必要ありませんでした。
1920年、島根県の匹見(現益田市)の山奥に移住し、現地に住んでいる日本人が教えてくれた炭焼きで生計を立て始めました。私はそこで1928年に生まれました。

今でも匹見には韓国の集落はあるんですか?

李 鐘根さん

今はないですね。両親が移住した時には約2000人の韓国人が住んでいたと聞いています。
炭焼きの仕事が大体落ち着いた頃、広島県の佐伯郡の吉和村に引っ越しました。
父は吉和村で山を買い、その山の木で再び炭焼きを始めました。
私は父の仕事を手伝いながら小学校に通いはじめました。
小学2年生までは家の近くにあった分校に通い、3年生からは4キロ先の本校に歩いて通いました。

小学校には韓国の名前で通っていたのですか?

李 鐘根さん

いいえ。私の本名はイ・ジョングンと言いますが、両親がつけたエガワ マサイチという日本名で学校に通っていました。

子供心に自分の名前が違うという違和感はなかったですか?

李 鐘根さん

そんなに気にしていませんでした。
むしろ、イ・ジョングンという韓国名はなんとか忘れようとしていました。

韓国名を忘れたいと思われたのはどうしてでしょうか。

李 鐘根さん

やはり差別です。
私がいた吉和村は400戸程の小さい村でしたから、流暢な日本語が話せない私の両親を見て「あの家族は朝鮮人だ」とすぐに噂が立ちました。 家を借りるにしても一般の家は借りられませんでした。 住んでいた家は田んぼの近くの低地で、雨が続けば田んぼの水がすぐに入ってくるような所でした。

学校でも差別はありましたか?

李 鐘根さん

はい。色々ありました。
よく覚えているのが4年生のある日、教室で女の子が泣いていたことがありました。
先生が「誰がやったんだ」と聞くと「エガワがやりました」と数人の生徒が言ったんです。
私は何もしていません。それなのに先生は、私を廊下へ引っ張り出して叩きました。
あの頃は本当によく叩かれました。

6年生の時にもひどい出来事がありました。
同じ村に住むおじさんに「エガワ、こっちに来い。そこに立て。」と言われ、道端に立たされて尿をかけられたことがあります。
「どうしてこのおじさんは、自分に小便をかけるんだろう。」と思いましたが、何も言えず、ただただ泣くことしか出来ませんでした。
家に帰って父にその出来事を話しましたが、父は黙ったまま何も答えず、加害者のおじさんに抗議をすることもしませんでした。
それほど当時は韓国人の立場が弱かったのです。
私だけではなく妹や弟にも村の人たちからの嫌がらせがあり、両親は吉和村から引っ越す事を決めました。

吉和村から呉へ

吉和村からどちらに引っ越したのですか?

李 鐘根さん

呉市です。坂町の横浜という所に引っ越しました。
ちょうど三菱造船が出来る時だったので、両親は韓国人向けの人材派遣業者を始めました。
飯場という名のバラックに従業員を住まわせて、身の回りのお世話をしていました。
私は尋常高等1年生から坂町の学校へ行きました。
ここでは全く差別はありませんでした。

どうして差別がなかったのですか?

李 鐘根さん

自宅や飯場は山の中にあったため、小学校のある町に両親が出ることがほとんどなかったのが理由だと思います。同級生たちは私が韓国人であるという事を知らなかったのです。
私はこの学校で本当に生き生きと勉強し、2年間を過ごしました。
そして14歳の時、今で言うJR、国鉄の試験を受けて運良く通りました。
憧れの職業でした。
一生懸命勉強をして、校長先生から採用通知を受け取ったときは本当に嬉しかったです。

頑張った成果が認められて就職先が決まるなんて、嬉しいですね。

李 鐘根さん

そうですね。しかし、すぐに嬉しい気持ちから一変するような出来事が起こりました。
採用通知は国鉄に自分で提出するのですが、通知の備考欄に「朝鮮人」と書いてあるのを見つけてしまったのです。
校長先生が、私が韓国人であることを国鉄の人たちに伝えるために書いていました。
なぜわざわざそういったことを書かれなくてはいけないのか。
やりきれない思いで私はその表記を消しました。
そして14歳から18歳くらいまで日本人として国鉄で働きました。

8月6日当日のこと

李さんが被爆されたのは何歳の時ですか?

李 鐘根さん

国鉄に勤めている16歳のときです。
私の職場の第一機関区は広島駅から少し歩いた所にありました。
現在のマツダスタジアムの近くです。当時あの辺りは第一機関区と呼ばれるSLの車庫だったんです。
国鉄に勤め始めてしばらくは職場の近くにある付属の寮で暮らしていましたが、毎日出されるご飯が食べれたものでなくて、とうとう16歳で寮を出て、原爆当日は、実家のある廿日市の平良村から職場まで電車で通っていました。

実家は呉から引っ越されていたのですか。

李 鐘根さん

はい。私が14歳の頃、家族は呉から廿日市の平良村へ住まいを移していました。

「食べれたものではないご飯」とは、どんなものだったのですか?

李 鐘根さん

満州から送られてくる高粱(コウリャン)という粒と満州義勇軍が作った大豆を絞ったカスを潰してご飯の中に入れたものが主食です。
おかずは味噌汁や沢庵くらいしかありませんでした。どれも本当に美味しくありませんでした。

原爆当日も廿日市から通勤されていたということですが、8月6日当日の体験を教えて頂けますか。

李 鐘根さん

普段は朝7時頃の列車に乗って廿日市の駅を出るんですけど、8月6日の朝は母とちょっとした口喧嘩で出発が遅れました。
その日に限って私はいつも履いている黒いズボンが嫌で、白いズボンを履かしてほしいと母に頼みました。
母は「いつも通りの黒いズボンで服装を整えて出勤しなければだめだ」と言い、結局白いズボンは出してもらえませんでした。
言い争っているうちに、いつも乗っている時間の列車に乗り遅れました。

今は宮島から広島駅まで路面電車が直行で走っていますが、当時は己斐という駅で一度乗り換えなければ広島駅には行けませんでした。その時も、己斐駅で乗り換えて爆心地となる場所を原爆投下10分前に通過しました。
電車を降りてから的場町の荒神橋を渡った瞬間、黄色みがかったオレンジ色の閃光が一面に広がりました。
街全体が光り、目の前にある家の壁に当たった閃光は、たなびくように見えました。
これは只事じゃないと思いました。どこを見てもオレンジ色でした。
私は閃光を見た後、すぐに目と耳と鼻を押さえて伏せました。
しばらく伏せた後、顔を上げると周りは真っ暗でなにも見えなくなっていました。
周りの家は全部崩れていました。私が持っていた弁当箱が、30メートル程離れた場所に飛ばされていました。

職場に走って向かおうとすると、両端の潰れた家から「助けてくれ」という声が聞こえてきました。
でも一人も助けることは出来なかった。とにかくその時は早く職場に着きたい一心でした。
機関庫に着くと、友達がいました。彼らは原爆の瞬間、機関庫の中にいたので火傷もせず無事でした。

機関庫は頑丈だったんですか?

李 鐘根さん

はい。機関庫は機関車が出入りするため、ドアがなく吹き抜けのつくりになっています。壁も厚く、爆風が吹き抜けを通っていったため、倒れずにすんだようでした。
友人は私の顔が火傷で真っ赤に膨れているのを見て機関車のオイルを塗ってくれました。
当時、やけどには油が良いと言われていたのです。
しかし、それが痛くて痛くて…親切心で塗ってくれていたのですが、あまりの痛さに「もうやめてくれ!」と力ずくで、はねのけたのを覚えています。
その後、仲間たちと一緒に機関庫のそばの防空壕でしばらく過ごしました。

防空壕の中ではどんなことをされていたんですか?

李 鐘根さん

じーっと寝てるだけです。
12時過ぎにお腹が空いたので、爆風で一度吹き飛んだ弁当箱に入っているごはんを食べました。
今考えると放射能に汚染されていたものをよく食べたなと思います。
情報がなかったので、危険だということは一切知らなかったんです。

放射能に汚染されているかどうかなんて、目に見えませんしね。

李 鐘根さん

そうですね。そもそも原子爆弾というものも知らないし、放射能のことも知りません。
私はお腹が空いていたので、弁当を半分くらい食べました。
その後はずっと泣いていました。
お父さんやお母さん、妹や弟が同じように苦しんでいるんじゃないかと思っては悲しくなり、長い時間泣いていました。

しばらくして、会社から支給された帽子が爆風で飛んでなくなっていることに気づき、午後2時くらいに帽子を探しに防空壕を出ました。
兵隊さんが訓練をしていた東練兵場の辺りに行く途中で、多くの焼けただれた人々を見ました。
群がるようにして、どんどん練兵場へ入っていきました。
8月6日は夏でしたので、人々は皆半袖を着ていました。
その中で爆風と3000度の熱線を浴びる事を考えてください。鉄は1500度で溶けますよね。3000度の熱線ですよ。
爆心地から私が被爆した場所までは1800メートル、1.8キロでした。
焼けただれた人達はもっと近い場所にいたのだと思います。
爆心地から500メートルエリアにいた人はほとんど亡くなってしまったそうです。
私が見た人たちは、爆風で服がちぎれて半分裸の様な状態でした。
皮膚は垂れ下がっていました。多くの人が「水をください」と言っていました。
倒れていく人や亡くなった人たちもたくさん見ました。

李 鐘根さん

結局帽子を探せなかったので、私は機関庫に戻りました。
夕方4時くらいに、仕事もないので帰ろうという事になり仲間たちと職場を出ました。
爆心地は通ることが出来ません。焼けていない場所を通って帰らなければなりません。
家のある廿日市まで、ずいぶん遠回りをして帰りました。
火が燃えていない所や燃え尽きた所をジグザグに歩きました。
元広島大学のあった千田町では、大学の塀が倒れてその下に馬が一頭死んでいました。
その馬の目は飛び出ており、友人と「うわー!」と驚いて、その場所を通り抜けました。

目が飛び出ていたのは、爆風が原因ですか?

李 鐘根さん

そうですね。原爆の爆風で目が飛び出たんだと思います。
橋のたもとを通ると真っ黒に焼けた人が埃だらけの頭で、私たちをじーっと眺めるのです。
「水をください」、「助けてください」と言うんだけども、私は、もし地獄があるならこの状態を地獄だと思いました。
川には死んだ人が流れていて、町はまだまだ燃えている所もありました。
そんな所を歩き続けて国道二号線へ出ました。
そこから私の家までは残り16キロもありました。
16歳で火傷を負いながら16キロを歩き続けたのは本当にしんどかったです。

帰宅~ケロイドの治療

火傷を負った状態で家に歩いて到着するまで何時間かかったのですか?

李 鐘根さん

機関庫を出たのが夕方4時頃で家に着いた時は夜の11時を過ぎていましたから、7~8時間は歩いたと思います。
国道で死んだ人を山ほど積んだ軍隊のトラックが走っていたのですが「乗せてください」と手を上げても乗せてくれませんでした。
結局、最後まで歩いて廿日市の平良村まで帰りました。 家に帰ると、弟だけがいて、両親はいませんでした。 「母さんと父さんはどこに行ったの?」と聞くと「兄ちゃんを探しに広島に行った。」と言うんです。
自分が職場にいることは父に伝えてましたが、詳しい場所は教えていませんでした。
なぜかというと両親が職場を訪ねてきたら自分が韓国人だとばれてしまうからです。

李さんの職場の場所がわからないのに探しに出られたのですね。

李 鐘根さん

はい。父は広島駅の近くまで歩いたそうです。
結局私を見つけられず、どうしようもないので帰ってきて、あくる日の夕方に家に戻って来ました。
母は五日市駅辺りまで来た時に、焼けただれた人たちが手を前に突き出して歩いているのを見て、とてもじゃないが息子は生いないきてだろうと思って家に引き返したそうです。
母は家に帰ると、私がいることに驚き「生きとったんかぁ」と言って、真っ黒い油だらけの私を抱きしめてわんわんと泣きました。

子どもが火傷を負って帰ってきた行程を考えると、親心としてはたまらない気持ちでしょうね。

李 鐘根さん

そうだと思います。その日の夜は、寝ようと思ったのですが、やけどが痛くて寝れないんですよ。
次の日、うちの近くにあった鉄道病院の分院に行きました。
薬がなく、やけどをした場所には消毒液の赤チンが塗られました。
赤チンを塗った場所はカサブタになりました。
カサブタが乾いたら破り、その下に赤チンをつけることを繰り返しました。
首の後ろは見えないので、母が塗ってくれました。
しばらくすると皮膚が腐りはじめてハエがたかりウジも湧いて、すごい臭いを放つようになりました。
顔も膨れ上がってね、どうしようもないんですよ。
長男の私のこんな姿を見て、母は苦しんだと思います。
「早く死んでくれ」という意味の韓国語で「チュゴラ」と言いながら私を抱いて泣き続けました。
私も一緒に泣きました。母の涙が顔にポタポタ落ちてくる感覚は今でも忘れられないです。
当時は、頭の髪が抜けると死ぬと言われていたので、私は毎朝自分の髪を引っ張っていました。
「抜けない。大丈夫だ。」って。これが毎日の繰り返しでしたね。

やけどの痕は今でも残っているのですか。

李 鐘根さん

幸運なことに今はほとんどありません。
やけどが治らないのを見た近所に住む日本人のおじいさんとおばあさんが、ある日湯のみに油を入れて持ってきてくれました。
この油で私は助かったんです。
植物性の油でした。2ヶ月くらいでみるみるうちに健康な皮膚に戻っていきました。
11月か12月くらいには、大体人前に出れる顔になりました。
そして、職場に復帰しました。

戦後の広島~証言をするまで

李さんは戦後の広島も見てこられたと思うのですが、職場に復帰されてからはどのような人生を歩まれたのですか。

李 鐘根さん

職場に復帰した私に待っていたのは戸籍謄本の提出でした。
韓国籍だと知れたらこの職場にいられなくなるのではないかと思って、ずっと出していませんでした。
憧れて入った職場なので、出来るだけ長く居続けたいと思ったのです。
しかし、「次はいつ職員の人から戸籍謄本の提出を求められるのだろう」と思うと、恐怖で仕事も手につかなくなり、18歳の時に給料も貰わず、辞表も出さずに国鉄を辞めました。

機関庫を辞めた後はどうやって生計をたてられたのですか。

李 鐘根さん

自動車の免許を取り、トラックの運転手をしていました。
日本の企業に勤めるためには身分証明書が必要になるので勤めることができませんでした。
他にも、家族で飴や酒を造って売ったり、豚を飼育して売ったりしていました。
しばらく定職には就きませんでしたが、30才の時、はじめて自分の店を持ちました。
今で言うリサイクルショップです。「あひるや」という名前でした。
この事業でやっと安定して飯が食えるようになったんです。

被爆証言を始められたのは何歳くらいの時ですか?

李 鐘根さん

はじめは、被爆証言という言葉を聞くだけでも嫌でした。原爆のことは話すのも嫌でしたね。
人に話をするきっかけになったのは2012年に乗ったピースボートです。
原稿用紙に被爆体験を書き、ギリシャの大きな学校で初めて自分の韓国名で子どもたちに向けて証言をしました。

初めての証言はいかがでしたか。

李 鐘根さん

声が声になっていなかったと思います。
帰国後、自分が証言をした新聞記事を見た人から連絡がありました。
その人は、韓国人被爆者を救援する会の部長さんでした。彼から依頼があり、2012年から日本でも被爆証言を始めました。

小学生といった子どもたちに向けて話す際に心掛けていることはありますか。

李 鐘根さん

子ども達には「人を大事に、自分も大事に、物も大事にしよう。思いやりがあれば差別は生まれない。君達の隣にいる友達は宝だよ。君たちのひいおじいさんたちはみんな戦争を体験した。日本人は昔、外国に行って多くの人を殺した。そのかわり日本人も何百万人と殺された。あなた達に責任はない。でも、今からあなた達は立派なお父さん、お母さんになって、2度と戦争を起こすような人にならないという責任はあるよ。」とよく伝えます。
また、「平和の反対は無関心なんだよ。」とも伝えています。

差別の話は、自分の受けたつらい体験談と共にアウシュビッツの話を取り入れて話しています。
子ども達にユダヤ人が収容所に収監されたときの貨車の写真を見せて「この貨車に70人くらい乗せて、トイレもないところを4日間くらい運ばれたんだよ。そしてこの人たちはみんな殺された。ユダヤ人というだけで差別をされ、みんな殺されていったんだよ。命の平等とはなんだろうか。無差別に人を殺しても良いのだろうか。」と伝えています。

ありがとうございました。「平和な時代に生まれてよかった」と思うだけではなくて、次の世代に平和な社会をどうつないでいけばいいかを、今を生きる私たちがしっかり考えていかなくてはいけないですね。

李 鐘根さん

そうですね。本当にそれは大事なことですよ。
この体験談をぜひ次の世代にもつないでください。
「今日の聞き手は、明日は語り部」ということわざもありますから。

2019年6月 取材