ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 4
2015.6.10 up

「一回しかない命よ。」 どれだけ命を取るかということに費やすなんて、どこに夢があるの?

企画者 祖母Kubota’s grandmother

 被爆者

企画者 祖母さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。

本企画をきっかけに、初めて70年前の出来事を語った代表の祖母。

被爆前の話、救護側にまわった8月6日、そして、若い世代へのメッセージを伺いました。

目次

  1. 被爆前の話
  2. 8月6日の話
  3. 若い世代へのメッセージ

被爆前の話

おばあちゃんは、今年90歳ですよね。終戦の年に20歳ということは、10代からずっと戦争の中を生きてきた、ということですか。

企画者 祖母

そう。小学生の頃には日清戦争があったし、戦争続きだった。
日本が満州帝国を作った頃には、夏休みに満州に遊びに行ったりしていたよ。

昔から不思議だったのですが、その世代で英語を話せるのはどうしてなのでしょう。

企画者 祖母

当時通っていた学校に外国から来た先生が何人もいたし、教会のボランティアもしていた。色んなところに出入りしていたから。

英語の授業があったということですか?

企画者 祖母

ミッションスクールだったからね。
戦争がはじまる前は英語の授業が普通に行われて、帰国子女も沢山いたよ。
学校では、これからの時代は3Mの時代、Motor(車)、Money(お金)、Men(人間)ということを習った。排他的な教育ではなかった。アメリカを憎めとか、そんな空気もなかった。

戦争が始まってからは、ミッションスクールに通っていると、大変だったでしょう。

企画者 祖母

戦争がいよいよはじまるという時、外国から来た先生はみんな船で母国に帰らされた。
戦時中は、そりゃ、色んな意地悪があったよね。
スパイの学校に通っていると言われたり。特に憲兵隊には目をつけられて、まず垢抜けた先生が追放されて、他の先生が回されてきた。環境から変えられていった。

8月6日の話

広島の景色

原爆が落とされた時には、どこにいましたか。

その日はたまたま、爆心地から2.1kmの三篠にある自宅にいた。
家は頑丈にできていたから爆風で倒れなかったけど、窓のガラスが割れて、破片が右腕に5つか6つ入った。怪我自体は大したことなかった。

火事は大丈夫だったの?

火は家まで来たよ。近所の材木屋に積まれていた材木が燃えて火の粉が飛んできて、屋根から燃えはじめたから、私はモンペと半袖の白シャツを着て、掛け布団を自転車の後ろに縛り付けて、手ぬぐいを湿らせて被って逃げた。
自転車をこいで市内が見渡せる太田川に向かう途中、壊れた家の下から、「助けて!」という声が聞こえる。見たら、家がつぶれた下に年配の女性が挟まっていた。
折り重なる材木をはずして、柱を剥がして、なんとか助け出した。
それから自転車の後ろにのせて、川の土手まで連れて行った。

川の周辺はどんな様子でしたか?

太田川についたら、桜の名所だった堤防沿いに、あたりが真っ赤になるほど怪我をした人たちがいた。倒れている人もいた。川の中は死体がいっぱい浮いているし、その間を泳いでいる人がいる。みんなが逃げて来たんじゃろうね。そこに乗せていた年配の女性を降ろして、また戻って3、4人助けた。

助けた人から「地獄に仏とはこのことです。この年まで生きて、地獄が本当にあるということも知ったし、その地獄にも仏さんがおられるということを私は知った。私はこの恩を死んでも忘れません。仏になっても若いあなたを守るから、そこで恩返しをさせてもらうから、それを覚えておいてください。」と言われたのを今でも覚えている。
困難なことがあった時には、そのことを思い出して「何とかなる。」と思うようにしている。

自転車で何度も往復して助けたんですね。勇気がありますね。

私が学校で受けた教育は、クリスチャンじゃないけども、何かがあれば助けてやる方法はないかと考えるものだった。みんなで、救援する風習の中で育っているから、何とか助けようとした。でもね。その時は自転車がなかったら川までよう運べんかったと思う。

助けた後は、市内に向かったの?

市内には行けなかった。入ろうとした時、被爆した市内電車の中の死体をピッケルで引き下ろしてトラックに乗せているのを見て、もう目がくらっとして、このまま入ってしまうとだめだ、と思い引き返した。
夜になるとね、火があちこちで燃えて赤く、人間の焼ける匂いがしたよ。
昼間は遮るものがなにもなく暑くて静かなんだけど、涼しくなると、焼け跡の灰の中から、「お水をくださ~い」という声がする。水をやったら死ぬから、欲しがってもやってはいけんと言われていた。
でも、どうせ助からないんなら飲ませてやろうと思って、心を鬼にして、水筒から水がある限りは、飲ませた。みんな、水が欲しい、欲しいと言っていた。

おばあちゃんは、ああいう事は、二度とあっちゃいけんと思うわけでしょう。

犠牲になったのは日本人だけじゃないからね。
捕虜や、私も交流があった南方の留学生や(※東南アジアから招いた国費留学生。各地の有力者、政治家の子弟などが学びに来ていた。)、朝鮮の人たちも亡くなったからね。

若い世代へのメッセージ

今回の企画では、戦争の話を聞くだけでなく、今の私たちには何ができるのか考えようというプロジェクトもあるのですが、おばあちゃんの考える身近にできる平和へのアクションはなんだと思いますか?

企画者 祖母

なにかを生み出す人にならないとね。みんなで力を合わせて、何かができたら、嬉しいものよ。焼け跡から復興したように、無一文でも、ひとりひとりの特技。気が利くとか、力があるとか、背が高いとかを集めて、考えて、自分たちでつくる。目標を持つことは、夢があるじゃない。
戦後は、本当に物がなかった。自転車がパンクしても、替えのチューブがどこを探し回ってもない。水道のホースひとつとってもない。
当たり前にあるものがないというのはどれだけ大変なことか。
人殺しをしなくても、何かあるはず。
食べ物、家具、道具、何かをつくって、生み出していく。そういうことが大事だと思う。
若い人たちに言いたい。「一回しかない命よ。」それを、命令されてどれだけ命を取るかということに費やすなんて、どこに夢があるの?先はないよ。そういうことを伝えたい。

おばあちゃん自身も、何か動こうと考えている、と以前言っていましたね。

企画者 祖母

そう。日本に来た海外の人たちにね、各国の言葉で「70年、平和な日本に来てくれてありがとう。戦争をしない国を十分楽しんで帰ってください」と書いた扇子をつくって、お土産に渡したいと思っているよ。

2015年6月 取材