継ぐ人インタビュー 受け継ぐ
Vol. 16 2020.12.29 up
原爆が落とされた当日に、マレーシア人が3人いたことを歴史として残すことは、意味があることだと思います
ヌルハイザル・アザムNurhaizal Azam
広島市立大学 准教授
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
マラヤ(現:マレーシア)から留学中に広島で被爆した南方特別留学生を調べ、遺族を探し、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館への遺影登録につなげたマレーシア人のヌルハイザル・アザムさん(47)。マレーシアや日本の人たちに南方特別留学生のことをもっと知ってもらいたいと活動を続けています。アザムさんの想いを伺いました。
留学生として日本に来たアザムさん
アザムさんご自身について教えてください。
私は、ヌルハイザル・アザムと言います。マレーシア出身で、現在47才です。
マレーシアのマラヤ大学の日本特別留学コースで2年間教育を受け、卒業後に日本の富山大学へ留学しました。
2017年から広島市立大学国際学部に赴任し、准教授として勤めています。
マレーシアはどんな国ですか?
暑い国です。住んでいる人々は明るく、いつもニコニコ笑っていて、誰とでもすぐ友達になるような、人懐っこい人たちがたくさんいる国です。
マレー系、チャイニーズ系、インド系、という多民族国家で、マレー系が過半数以上占めています。
マレーシアは約400年間植民地でした。1511年のポルトガルからはじまり、オランダ、イギリス、日本、太平洋戦争後にふたたびイギリス・・・。
特にイギリスの植民地だった歴史が長いです。
マレーシアの母国語はマレー語ですが、一般的には英語が話されています。
2か国語、3か国語を話せる人がほとんどで、英語を学ぶ教育がとても熱心です。
アザムさんが日本に来られた経緯を教えてください
マレーシア政府が1981年に提唱した「東方政策※」という留学プログラムの第10期生として日本に来ました。
東方政策の設計に関わっているアブドゥル・ラザクさんは、広島へ留学中に原爆にあった被爆者の一人です。
原爆が落とされた時、マレーシア人の留学生は3名いましたが、ラザクさんは唯一祖国のマレーシアへ帰国できた人でした。
※東方政策
1981年にマハティール前首相が提唱した構想で、日本及び韓国の成功と発展の秘訣が国民の労働倫理、学習・勤労意欲、道徳、経営能力等にあるとして、両国からそうした要素を学び、マレーシアの経済社会の発展と産業基盤の確立に寄与させようとする政策。
https://www.my.emb-japan.go.jp/Japanese/JIS/LEP/top.html#:~:text=東方政策とは、1981,マレーシア政府の政策です。
広島で被爆された留学生が、マレーシアと日本をつなぐ留学プログラムに携わっていたのは知りませんでした。
現在私が調査している南方特別留学生は、マレーシアから日本に留学生として来日した、という点で境遇が似ており、とても親近感を覚えています。
私は日本に来て、生まれて初めて雪を見て感動しました。暑い国では雪が憧れだったからです。南方特別留学生について書かれた資料の中にも、雪を見て感動したという記述がありました。東南アジアに住む人たちの気持ちは皆同じだと思いました。
南方特別留学生を調べるきっかけ
日本に来る前は、広島の原爆についてはご存じでしたか?
はい。知っていました。マレーシアでは広島の原爆ことは誰でも知っています。
しかし、知識として知っているだけで、深い関心はありませんでした。
マレーシアの中には、被爆した場所が現在どのような状況になっているのか知らず、怖いと思っている人が少なからずいます。
私の赴任先が広島になった時も、周りから「大丈夫?放射能はまだ残ってないの?」と心配されました。
アザムさんが広島の原爆について関心を持たれたのはいつでしたか?
広島に初めて旅行に行った1995年です。平和記念資料館の展示に衝撃を受け「NO MORE HIROSHIMAS」というステッカーを買ったのを覚えています。そのステッカーはマレーシアにある父の車に貼り、廃車になるまでずっと貼っていました。
南方特別留学生を調べるきっかけになった出来事を教えてください
2017年に大学の准教授として広島へ赴任してきた時に、ネットのニュースでマレーシア人の南方特別留学生、ニック・ユソフさんのお墓が広島の佐伯区にあることを知りました。
当時、たまたま同じ佐伯区に住んでいたので「これは近いし、同じマレーシア人としてお墓に行かなければ。」と思いました。しかし、お寺を探しあてることが出来ませんでした。
実は、ユソフさんのお墓は、彼の留学先であった広島大学(旧:広島文理科大学)が、毎年8月6日に法要を行っています。
2020年。コロナ禍の中で法要があることをマレーシア人のLINEグループで知りました。
「広島大学の学生ではないですが、行っても良いでしょうか。」とお願いをして参加させていただいたのが南方特別留学生を調べはじめる大きなきっかけです。
留学生の遺影登録に向けて
ユソフさんの法要が留学生を調べる大きなきっかけとなったということですが、どんなことが気持ちを動かしたのでしょうか。
日本の人たちが、ユソフさんのために、ここまで手厚く法要をしてくれている、ということに感動しました。法要が自分の想像を超えて本当に立派で驚きました。
法要にはマレーシア人や日本人を含む沢山の人たちが参列されており、その中に自分が昔お世話になった日本人もいました。
「マレーシアの人達は、法要のことも、留学生のマレーシア人が原爆にあって亡くなったことも知らない。なんとかしなくちゃいけない。」と思いました。
マレーシアは口伝が主で記録をあまり残しません。史実を歴史の記録として残すことは、自分の使命だと感じました。
日本の人たちも南方特別留学生について知らない人が多いですよね。
そうですね。私自身も広島で被爆体験を聞いてきましたが、やはり話は日本人がメインです。昔の日本にも国際交流があって、海外の人たちがいたという事実を今の人たちにも知ってほしいと思います。
ユソフさんの法要に参加された後、どのような行動に移されましたか?
まず、法要中に知り合った早川幸生先生から、ユソフさんと同じマレーシア人の南方特別留学生サイド・オマールさんの法要が9月3日に京都であると伺い、参列しました。
京都のお寺では、オマールさんがイスラム教だったことを尊重して火葬ではなく土葬で埋葬していました。
私は、日本人のそういった優しさに、ムスリムとして、マレーシア人として、感動しました。
広島に戻った後は、ニック・ユソフさんについてマレーシア語でまとめてYouTubeにアップをしました。そして、ユソフさんの親族とSNSでつながり、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ遺影の登録を促しました。
遺影の登録の持つ意味や重要性について教えてください。
遺影の登録をしていない、ということは被爆者のリストに載らないということです。
原爆が落とされた当日にマレーシア人が3人いたことを歴史として残すことは、意味があることだと思います。
遺影登録は血のつながった遺族しかできませんが、SNSを介してユソフさんの遺族とつながり、ユソフさんの法要に参加した1カ月後には遺影を登録することができました。
京都のオマールさんの登録も、これからできるように動いていきたいと思っています。
日本とマレーシアの懸け橋に
今後どういった活動をしていきたいですか?
日本とマレーシアの懸け橋になる活動が出来たらと思っています。
まず、南方特別留学生のオマールさんを語り継いでいる早川幸生先生が出版された「オマールさんを訪ねる旅―広島にいたマレーシアの王子様」という本をマレー語に翻訳してマレーシアで出版したいと考えています。
また、南方特別留学生はマレーシア人だけではありません。
東南アジアから来られた人たちのリストがあるので、その方たち全員の遺影登録も出来たらいいなと考えています。
日本ではインバウンドの観光客へ向けた、南方特別留学生を知る観光コースをつくりたいです。留学生のお墓がある広島と京都をセットにしたルートだったり、広島平和記念資料館やユソフさんのお墓を巡るコースだったり・・・。
海外からの旅行客には、日本を楽しむだけではなく、平和についても考えて欲しいと思っています。
最後に、マレーシアの大学生たちと、南方特別留学生の共同研究をしていきたいと考えています。マレーシアの人たちは、平和にあまり関心がありません。なぜかというと植民地だった歴史が長いため、国内で戦争がなかった国なんです。
国内で戦争がなかった国の人たちに、戦争の惨禍をどう伝えていけばいいのか、宮島といった広島の観光の視点も取り入れながら若い人たちに関心を促していきたいと思います。
ありがとうございました。最後に、若い世代へのメッセージをお願いします。
これからは、お互いの立場、価値観を認めて尊重し、共通点を探して、相手を認め合う社会になることが重要だと思います。つまり、多様性を認めるということです。
相手と違う点を探すよりも、共通点を探す方が、お互い前向きな気持ちになるじゃないですか。
私は、多様性はゴールではなく手段だと思います。ゴールにしてしまうとそこで終わってしまうからです。
多様性になることで社会が変わっていく、企業も若々しくなる、いろんなアイディアが出る。でも様々な意見、価値観をまとめるのは難しい。それらをいかにマネージメントしていくかが重要です。
マジョリティーとマイノリティーが交わる上で、重要なのは相手へのリスペクトです。
キーワードは「交流」と「尊重」だと思います。
ボランティアに関しても「自分が出来ることではなく、自分がするべきこと」を考えて参加し、行動することが大切です。
世間が、世界が求めるものを考え、ボランティアの対象の国・地域・人が存在する場合は「本当に先方が求めているものは一体何なのか。」に向き合い、現地の人たちにも聞いていく。
自分や相手が求める価値だけではない「共通の価値」を見出すことが、これから目指すべき多様性のある社会につながるのではないでしょうか。
2020年10月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。