ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 6
2016.6.16 up

自分はずるい被爆者だと思い、語る資格はないとずっと思い続けてきました。

松本 正Tadashi Matsumoto

神奈川県在住 被爆者

松本 正さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
神奈川県在住の被爆者の松本さんは、ご自身の体験を2年前(2014年)から語り始めました。自分には語る資格がないと思い続けていた松本さんが、お話をされるようになったきっかけと8月6日当日のことを伺いました。

目次

  1. 松本正さんについて
  2. 8月6日当日のこと
  3. 語り始めたきっかけ

松本正さんについて

被爆をされた時の年齢を教えて頂けますか。

松本正さん

現在85歳なので、被爆をしたのは中学3年生の14歳の時。爆心地から3.5キロの観音町にある三菱工場で被爆しました。

ご家族の方も被爆されたのでしょうか。

松本正さん

当時、二中(県立広島第二中学校)の生徒だった弟は、爆心地の近くで建物疎開の片付け作業中に被爆して亡くなりました。そこにいた1年生320人も全滅しました。弟だけでなく、原爆で身内を10人失っています。名古屋から実家へ疎開していた長姉は子供5人共々、新婚の末の姉も。私自身は無傷で助かりました。自分はずるい被爆者だと思い、語る資格はないとずっと思い続けてきました

8月6日当日のこと

8月6日のことを教えて頂けますか?

原爆が投下される1週間前、広島市の中心部にあった私の家は、強制建物疎開命令を受けました。母と弟と私3人は芸備線の山奥にある伯父の家の納屋に移り、名古屋から疎開してきた姉は、子供5人を連れて市内の天神町の家に移りました。
前日の8月5日は、私と弟が引っ越しで休んだ後、学徒勤労動員として初出勤する日でした。
二人で自転車に相乗りして駅まで向かおうとしたのですが、自転車のチェーンが切れたので、私はもう一日休むことにして、弟は天神町の姉さんの家へ泊まると、一人で1里の道を駅へ向かいました。それが二つ下の弟との永遠の別れになったのです。
8月6日、列車が遅れたため、始業時刻を少し過ぎてから工場に到着しました。警戒警報も解除されていましたし、綺麗に晴れ上がった青空に米軍機がいるなんて誰も思っていませんでした。砂利を入れた袋を担いだ瞬間、ズンッという衝撃とフラッシュのような青白い光が走りました。何事かと思って市内の方を見ると、ジリジリと燃える太陽が2つ見えて得も言われぬ恐怖を感じ、すぐに近くの防空壕に飛び込みました。その瞬間、物凄い轟音が聞こえ、その後、シーンと静かになりました。恐る恐る出てみると、5階建ての建物は骨だけになっていて、屋外にいた人たちはガラスの破片が刺さって血だらけになっていました

防空壕から出た後はどうされましたか。

帰宅命令が出たので、芸備線仲間の友人と帰ることにしました。工場正門を出た途端、向こうからぞろぞろと歩いて来た人たちが、ほとんど裸で手を前に下げてやってきたのを見て絶句しました。一瞬幽霊かと思いました。川辺にも多くの人々がうずくまったり横たわったりしていました。私たちは、それを横目に丸太を繋いだだけの橋をよじ登って西へ向かいました。
己斐駅が燃えているのをかいくぐって、線路伝いに歩きました。枕木がシューシュー火を噴いていて、よけながら歩くのが大変でした。その時に降って来た雨がコールタールのように黒い雨で、下着まで真っ黒に染まりました。これが放射能を含んでいるなんて、誰が知っていたでしょうか。 竹藪には怪我人が一杯で、看護している人から「お前たちはどうして無傷なんだ。」と白い目を向けられました。北上して矢口の渡し駅に停まっていた芸備線に多くの負傷者と共に乗り込み、呻き声を聞き、血の臭いを嗅ぎながら母一人待つ納屋に逃げ帰りました。

とにかく家に帰らないと、という一心だったんですね。

そうです。家に帰ると東洋工業(今のマツダ)の寮にいた三つ上の兄が先に帰っていて「勝が死んだぞ」と言いました。私は弟が今日何処で働かされていたか知らなかったのですが、二中の先輩の兄は前夜からそれを耳にしていて、爆心地で1年生の死体の列を探し、6学級の弟と思しき白骨を拾って持ち帰っていました。伯父の家でお経をあげてると、家へ出入りしている呉服屋さんが「松本さんの、こまい坊ちゃんが己斐の方へ逃げよりんさるのを見た。」と教えてくださり「勝は生きている!」と大騒ぎになりました。しかしながら、井ノ口の救護所となっていた寺で発見された弟は、息を引き取っていました。亡くなるまでの数時間「お兄ちゃんが助けに来てくれる。」と、か細い声で言っていたそうです。そのお兄ちゃんとは最も身近な私だったと思うと今でも辛い気持ちになります。
自分は誰ひとり助けられずに生きていて申し訳ない。助けずに逃げた私は被爆者としてずるい人間ではないかという気持ちを70年間、ずっと持ち続けてきました

語り始めたきっかけ

自分には語る資格がないと思い続けていた松本さんが、お話をされるようになったきっかけを教えていただけますか。

松本さん

神奈川県川崎市から横浜市に移り住んで6年になりますが、移り住んでから1年後くらいに、「横浜市原爆被災者の会」に入れて頂いたのです。入会後、3年もたたないうちに事務局長をやってくれないかというお話をいただき、引き受けさせていただきました。

松本さん

そして、一昨年の7月に、会長の佐藤さんから、自分で引き受けた講演会があるが、どうしても出ることができなくなったので、代わりに講演(被爆証言)をしてほしいと依頼されたのです。それで、佐藤さんの代打を引き受け、初めて人前で被爆体験を語りました。高校の300人の生徒が私の話を聞いてくださいました。その生徒さんたちから「平和のありがたみが身に沁みました。戦争はいやです。」というような内容の感想文をたくさんもらったんです。ああ、私の下手な話でも役に立つんだ、自分の拙い言葉でも伝わるんだということに深く感動しました。

語り始めて何か変わりましたか。

松本さん

はい、変わりました。今までやるべきだったという後悔もありますが、自分は死ぬまで語り続けるんだという確信を得ました。語り続けようという気持ちが固まったことが、変わったことですね。

貴重なお話をありがとうございました。

2016年6月 取材