ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
受け継ぐ
Vol. 6
2016.7.10 up

私の活動は、亡くなった方々の魂の供養だと思っています。

嘉陽礼文Reibun Kayo

広島大学 研究員

嘉陽礼文さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
広島市の川で原爆瓦などの遺物を拾い集め、海外や教育機関に提供している広島大学 研究員の嘉陽礼文さん。
活動のきっかけや伝えていきたい想いを伺いました。

目次

  1. 遺物を拾い集めるようになったきっかけ
  2. 活動の内容について
  3. 伝えていきたい想い

遺物を拾い集めるようになったきっかけ

現在、嘉陽さんが行われている活動の内容について教えてください。

嘉陽さん

川の中の遺物を拾い集めています。
広島市内の川底には、71年たった今でも原爆瓦や被爆瓦と呼ばれる原爆の熱線で表面が熔けた屋根瓦や、同じく熱線で熔けたガラス片、その後の大火災で熔けた色々な物が固まって膠着しているものや、原爆ドームの破片が眠っています
そういったものを中心に拾い集めて海外の大学や教育機関に送っています。

いつ頃から始められたのですか。

嘉陽さん

24歳になる年に、広島に来た初日から川に降りて始めました
海外への遺物の発送を始めたのは5年前です。
活動はトータルで14年、組織立った活動は5年目になります。
はじめの9年間はずっと一人で行っていました。

遺物を拾い集めようと思われたのは、どういったきっかけからでしょうか。

嘉陽さん

原爆瓦との出会いは中学校2年生の時です。修学旅行の中で、山岡さんという語り部の方から原爆のお話を伺ったのですが、言葉を失うほど悲惨なものでした。
私の出身の沖縄でも、多くの民間人が亡くなり遺骨もない方が多いですが、広島でもたくさんの方が、大火傷や大怪我をしたままの状態で川に入り、苦しい思いをしながら亡くなられたのだなと思いました。

嘉陽さん

お話の後、山岡さんのところへご挨拶に行くと「あなたが沖縄からいらっしゃって、とても興味を持って くださったのはありがたいことです。
広島の川には、亡くなった沢山の人々の魂がこもった原爆瓦があります。祈りながら探したらきっと見つかりますから、ぜひ探して持ち帰り勉強に役立ててください。」と仰いました。 そこで、友達と川に降りたら、本当に一升瓶が熔けたものや瓦があったのです。実際に拾ってみると「本当にあった。」という驚きと、甚だしく熔けていたので、一瞬の熱線でこんなに熔けるものが人間の肌にあたったら、どれだけひどいやけどを負うだろうと 想像するだけで恐ろしくなりました。
もう20年以上も前のことですが、そういった経験があり「広島に行ってもう一度拾いたい。」という気持ちが生まれ、活動を始めたのが経緯です。

語りがきっかけで、嘉陽さんのように心を動かされた人がいるというのは、語り続けている方の励みになりますね。

嘉陽さん

当時、私のいた学年は350人ほどでしたが、その中で今、広島の原爆・平和に関わる仕事をしているのは私一人だけです。しかし、三百何十分の一という確率でも、語り部の方のお話に心を打たれて人生がそういう方向に向かう人間もいます。確率はゼロではない。ですから、語り部、伝承活動をされている方々にはこれからも想いを発信し続けてほしいと思っています。

活動の内容について

嘉陽さんは、被爆体験の話の伝承ではなく、遺物を通じて伝承をされていますが、遺物によって何を伝えることが出来ると考えていらっしゃるのでしょうか。

原爆の殺傷能力には、熱線、放射線、爆風、大火災、後の自殺の5つがあります。これらを全て短時間で学ぶのはなかなか難しいことです。
遺物から一つ一つ追及することで、熱線は原爆瓦、大火災であれば熔けたガラス瓶、という風に別個に推測することができます。
収集している場所は、いずれ護岸の改修工事が行われる場所です。その時は土砂として遺物も撤去されてしまうのですが、その前に人間の手で出来る限り川にあるものを集めて、原爆の恐ろしさをお伝え出来ればという気持ちでいます。

遺物拾いの具体的な方法ついて教えて頂けますか。

川岸を歩いて探したり、川底に潜って探したりします。重いものだと重機を使って引き上げたりもします。回数を重ねるうち、引き潮の時に行くのが良いとか、どの辺をだいたい何センチくらい掘れば良いとか、いつの時間、タイミングに行けば良いかなどのノウハウがだんだん身に付いてきました。そうしているうちに拾えるものも増えて、短時間で最大限の仕事をする能力が身に付きました。一度拾いに行くと必ず何かが出ますね。

原爆瓦を海外へ送られているということですが、先方からそのような要請があったということですか。

海外から要請があったのではなく、広島大学から提案をしました。
昭和24年に新しい広島大学が誕生した時、初代学長の森戸先生という方が、世界の600ほどの高等教育機関に対し、広島市内の焼失したキャンパスと図書館へ、本と植木の苗木を寄贈して頂けませんかという協力依頼のお手紙を発送しました。そのお手紙に対してお返事を下さった大学のリストが今でも広島大学文書館に保管されています。そこから約150校を抜粋し、今度は60年前に寄付をしていただいたお返しと平和のシンボルとして広島大学から原爆瓦を送りたいと私から打診の文書を発送しました。
大学とは別に、世界の約40の博物館に対しても同じ文章をお送りしました。
2016年5月現在、お返事を頂いた51大学19か国6博物館、日本国内では小中高校4校に発送しております。

海外の送り先の反応はいかがでしたか。

やはり、最初から受け取りたいというお返事をいただいているので、お喜びいただいています。こんな形で展示していますとか、こんな風に講義で使っていますとか、写真入りで教えてくださることもあります。

伝えていきたい想い

嘉陽さんが24歳から現在まで活動を続けているモチベーションは、どこからくるのでしょうか。

嘉陽さん

私の活動は、亡くなった方々の魂の供養だと思っています。 広島には一族全員が被爆して亡くなられた方もいらっしゃいます。その方たちの魂は一体誰が供養するのだろうか、と活動を始めた24歳のときに思いました。 私は子どもの時に生活保護という形で国に助けてもらいました。ところがここで亡くなった方々は助けを得たいと思いながらも、お水一杯や治療、そういったことさえも叶えられずに亡くなっています。どれほどに痛く、辛く、無念の思いで絶命なされたか、想像もつきません。せめて、亡くなった方に魂の供養をして差し上げたいという気持ちでこの活動を続けています。一生やるでしょう、私は。

ありがとうございます。
最後になりますが、今回の企画展に参加している大学生から嘉陽さんに質問が来ています。 「戦争のこと、平和のことについて関わりたいと思ったとき、大学生で出来ることは何がありますか。」

嘉陽さん

思うことは大体出来ると思います。特定の宗教や政治団体に頼らずに、自分でやるという気持ちが大切ですね。反対派も現れることもあるかと思いますが、純粋な、がんばりたいという気持ちを持ち続けてください。

2016年7月 取材