ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
受け継ぐ
Vol. 7
2016.7.15 up

自分の足で動いて自分の目で見ないと駄目。「行動が未来を変える」と思います。

石綿 浩一Kouichi Ishiwata

神奈川県在住 広島市伝承者養成事業 2期生

石綿 浩一さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。

神奈川から広島に3年通い、2016年春に伝承者の資格を取得した石綿浩一さん。 伝承者を志したきっかけや、伝えていきたい想いを伺いました。

◆被爆体験伝承者の養成

被爆者の高齢化が進む中、被爆者の体験や平和への思いを継承し、概ね3年間をかけて被爆体験伝承者を養成する。

https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/10164.html

目次

  1. 伝承者を志したきっかけ
  2. 伝承者の活動について
  3. 伝えていきたい想い

伝承者を志したきっかけ

石綿さんは今年の春に2期生として伝承者の資格を取られたそうですね。昔からこういった戦争・平和に関するテーマには関心があったのですか?

石綿 浩一さん

はい。関心を持ったきっかけは3つあります。
1つ目は、自分が小学生の時、社会科の教科書をめくっていくと後ろのほうに広島に落とされた原子爆弾とキノコ雲の写真が小さく載っていて、担任の先生に「これはどんな爆弾だったのですか?」と伺ったら、先生も戦後の生まれですから何も知らずに答えられなかったのです。あの時のことがずっと心の中に残っていました。

石綿 浩一さん

2つ目は、1991年の地元の神奈川新聞に掲載されていた記事です。
現在の、みなとみらい地区が開発される前この場所には国鉄の高島駅跡があり構内には、鉄道通信用の木製電柱が立っていました。
昭和20年5月29日の横浜大空襲時に焼夷弾の油分が直撃して焦げ跡が残ったこの電柱は貴重な「戦争の生き証人」として写真付きで紹介されました。
私の自宅から近所でしたので、木製の電柱を探しに行ってみると裏側には雨に濡れても字が滲まないようにビニール袋がかけられていて「この電柱を撤去するときは連絡を下さい」とメモ書きが貼ってありました。そのメモの内容が気になって神奈川新聞社に問い合わせしたところ、元国鉄職員だった方の連絡先を教えてくださりお会いすることが出来ました。
戦時中の資料を見せて頂いたり、横浜大空襲を含む戦争体験を伺ったりしている中で、もっと深く知りたいと思ったのが2つ目のきっかけです。

自分が住んでいる近くに戦跡があると、昔の出来事が身近に感じてくるのかもしれませんね。3つ目のきっかけはどういったものですか?

石綿 浩一さん

3つ目は、数年前に行った鹿児島県の知覧にある知覧特攻平和会館でした。
展示の中で一番心を打たれたのは遺書です。遺書には必ず最後に「お母さん」という言葉が出てくる。その「お母さん」という言葉に胸を打たれました。飛行機で出撃する時は片道だけの燃料しか積んでいなかったのですから、生きて帰ってくることはできないと薄々感じていたのだと思います。今では信じられませんがこんな時代があったのだと感じました。

広島の被爆体験伝承者の養成については、どういった経緯から応募されたのでしょうか。

石綿 浩一さん

知覧特攻平和会館に行った11年後、ニュースで被爆体験伝承者1期生を知りまして、この被爆体験伝承者をやってみたいと思い、1年間ずっと広島市のホームページを追いかけていました。
そしてようやく2期生の募集が出たのですが、広島と横浜という距離に不安を感じ2~3日ほど悩んだ末、思い切って広島市市民局国際平和推進部に連絡をしてみました。
「関東に住んでいる者ですが、どういった流れで研修が行われるのでしょうか?」と伺うと色々説明をして下さり「全日参加されることが出来なくても、お気持ちがあれば充分です。」と仰ってくださいました。その言葉で背中を押され「よし、やろう。」と決心しました。

伝承者の活動について

広島の原爆については、伝承者へ応募された時点ではどのくらいご存じだったのでしょうか?

恥ずかしながら、原爆ドームと毎年8月6日にテレビで映し出される平和記念式典を知っている程度でした。

そこから3年かけて勉強されたのですね。具体的なカリキュラムの内容を教えて頂けますか?

1年目は、被爆の実相を学んだ後、120分の被爆体験証言を当時22名の被爆者の方から聞いて、その中からどの方の証言を継いでいくかを決めていきました。

2年目は自分の希望した被爆者の方と月1回ないしは2回くらいお会いして証言の聞き取りやフィードワークを行いました。3年目は被爆者の体験と私の平和に対しての想いをつづった原稿を書いて、提出して、添削して最終的に被爆者の方の御了解をいただきます。その後、講話実習がありまして、そこで発表。最後に被爆者の方の前でも発表し、これが卒業試験でした。私は今年の4月8日、委嘱式で「被爆体験伝承者の委嘱書」をいただきました。

自分の体験ではないことを語り継いでいくのはすごく大変だと思うのですが。

そうですね。戦争も原爆も体験していないこの私がどうやって伝えていったらいいのか?と本当に悩みました。被爆者の方が発する「痛かった」、「熱かった」、「苦しかった」これらの言葉はそのまま引用できません。私からは「痛かったそうです」、「熱かったそうです」、「苦しかったそうです」。このように、被爆者の方と同じようにストレートに言えないので被爆者の方のお顔を思い出しながら言葉を選んで伝えていくしかありません。

プログラムを始めた時、私にとって広島は親戚がいるわけでもないし、何もゆかりの無い土地でした。そのため、地名を知るため地図を買ったり、関東と広島で発音が違う言葉を調べてノートに書きとめたり、被爆者の方と長い時には2時間電話でお話したりしました。1対1の勉強会みたいな感じです。

プログラムの1年目は毎月広島に通い、2年目はひと月に多い時で2回ぐらい行っていました。被爆者の方と一緒に市内を巡るフィールドワークは、土地勘のない私には勉強になりました。

ただ話を聞くだけじゃなく、被爆された場所を一緒に巡るフィールドワークだと、感じるものは違ってくるのでしょうか。

例えば自宅で広島平和記念式典のテレビ中継を見ているのと、実際自分が式典の会場にいるのとでは伝わってくるものが違います。

まず会場内外の雰囲気。集まって来られるご年配の方達の眼差し。涙。想い。テレビには映らない貴重な部分が沢山あります。これは私が広島に行って感じたことです。

自分の足で動いて自分の目で見ないと駄目。「行動が未来を変える」と思います。現地へ行けば何か新しい発見や感じるものがきっとあるはずです。

伝えていきたい想い

これから戦争体験者も少なくなる中で、石綿さんは伝承者として活動していかれると思うのですが、人に伝えていくことで心掛けていることがあれば教えて頂けますか。

石綿 浩一さん

私の話を聞いて下さるすべての方が能動的とは限りません。受け身の方もいらっしゃると思います。修学旅行生の中にも「修学旅行だから広島に来た。」という子もいる。そういった子たちに突然原爆の話をしてもなかなか入っていかないと思います。
私の被爆体験伝承の原稿は、戦時中に上野動物園にいたゾウの話「かわいそうな ぞう」から入っています。このストーリーを原稿の冒頭に持ってきて広島の話に入る流れを作っています。いきなり戦争の話をするよりは動物の話をすることで、子供たちがいくらか耳を傾けてくれるかなと思いまして・・・。私なりの勝手な工夫なのですけど。このように、受け身の人たちにどうしたら話を聴いていただけるかを考えて原稿を作っています。

今後、どういった方を対象にお話をされていきたいですか?

石綿 浩一さん

やはり未来のある子供たち、小学生、中学生に向けてですね。
みんなの住んでいるこの日本は、昔戦争をしていたのだと偽りのない言葉で伝えていきたいと思っています。言葉では伝えきれないものに関しては気分が悪くなるかもしれませんが、ケロイドや焼死体などの写真を直視してもらい、いかに平和な時代が大切かを感じとってもらいたいと思います。
広島で、原爆が落とされたのはもう71年前の昔の話。子供たちにとっては遠い過去の話なのです。その彼らに向けて、いかに想いを伝えていくか、理解していただくか、しいては戦争・平和というテーマに少しでも興味を持って頂けるかが自分の中の課題です。

2016年7月 取材