ヒロシマの記憶を
継ぐ人インタビュー
語り継ぐ
Vol. 17
2021.3.15 up

被爆証言は沢山の方がされていますが、この目で見たことをお伝えすることが出来るのは、当時小学3年生だった私たちが最後の世代だと思います。

和田 庸子Yoko Wada

 被爆者

和田 庸子さん

今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
疎開先で原爆投下を体験した和田庸子さん(84)。
当時8歳の目から見た8月6日の様子と、被爆前後の広島について語ってくださいました。

目次

  1. 被爆前の生活について
  2. 8月6日当日の話
  3. 広島で見た風景

被爆前の生活について

原爆が落とされる前の生活について教えて下さい

私は、広島の西側に位置する己斐(こい)という場所で生まれ育ちました。
当時は、両親と祖母、兄、私、弟、妹、そして父方の従兄弟2人の合計9人で暮らしていました。
父は会社員をしており、貧乏でも裕福でもない一般的な家庭でした。
兄と私は7歳違いです。兄の後、私が生まれるまでに、男の子が3人生まれていましたが、みな病気で亡くなっていました。

子供の頃は、どんなことが好きでしたか?

踊ったり、歌ったりすることが大好きでした。

当時の流行歌のほとんどは知っていました。

「見よ、東海の空明けて、旭日高く輝けば~♪(愛国行進曲)」「金鵄輝く日本の栄えある光 身に受けて~♪(奉祝國民歌 紀元二千六百年)」といったゴム跳びの歌や、「ルーズベルトとチャーチルが、林の中で泣いていた。それを見ていた私達、お腹を抱えて わっはっは~♪」といった、まりつきの歌などを歌っていました。
今考えると、愛国的な内容や風刺的な内容を多く含んだ歌詞でしたが、当時は意味もわからず歌っていました。

小学校では、月のはじめに裏山にある八幡様(神社)へ行き、戦争の必勝祈願をしました。登下校の際は、隣組を基準にしたグループが作られ、最上級生が班長となってグループを統率していました。校内には二宮金次郎の銅像があり、前を通る際には敬意をもって最敬礼をしていました。

「金鵄輝く~」の歌については、他の戦争体験者からもお話を伺ったことがあります。
神武天皇即位紀元2600年をお祝いとしてつくられた歌ですよね?
当時は西暦で年を数えていなかったと伺いました。

おっしゃる通りです。 昭和15年(1940年)を紀元2600年と数えていました。 お祝いの日、町では旗行列が行われました。 背の高い叔父の肩車の上で行進の様子を眺めていたのを覚えています。 その叔父も、太平洋戦争の南方作戦で、帰らぬ人となりました。

8月6日当日の話

原爆が投下された時は何歳でしたか?

8歳です。安佐郡飯室国民学校(現在の飯室小学校)の3年生で、あと1か月で誕生日を迎え、9歳になろうとしている時でした。

被爆前の広島は、B29が時々飛来するくらいで、他の地域と比べれば大きな空襲もなく、比較的落ち着いた雰囲気でした。まさかあのような大惨事が起こるなんて、誰も予想していませんでした。

戦況が、悪化し始めた1945年(昭和20年)4月に、元々住んでいた己斐から、安佐郡飯室村へ疎開をしました。8月6日は疎開先の飯室にいました。

爆心地から和田さんがいらっしゃった飯室(いむろ)という場所までは、どのくらい離れているのでしょうか?

爆心地から、北へ約25kmの場所です。

疎開先の生活はどのようなものでしたか?

飯室では、祖母、私、弟、父側の叔母と叔母の子どもの5人で「上本(うえもと)歯科医院」の2階の一部を間借りして生活をしていました。
飯室の隣に鈴張(すずはり)という村があるのですが、飯室と鈴張、2村の中で1軒だけある歯医者さんでした。飯室駅に近い場所にあり、庭にはきれいな池や植え込みがある立派なお家でした。

国民学校へは、毎日約50分かけて徒歩で通学をしていました。
登校をしても、授業はほとんどなく、食用の野草をクラス全員で探していました。
野草は、市内の人たちが食べるための草団子の原料として供出していました。
街で育った私と弟は、どの野草が食用になるのか、全く区別がつかなくて苦労しました。
そして、勉強をほとんどしない学校が嫌になり、私はだんだん登校をしなくなりました。

飯室へ移って1か月後の5月に、弟は腎臓病が再発して治療の為に広島へ戻ることになりました。
そこからは祖母と私、叔母と叔母の子ども四人での疎開生活になりました。

8月6日の8時15分に何をしていたのかを教えてください

8月6日の朝は、疎開先のお家の縁側で、1人でお手玉をして遊んでいました。

突然、空がピカッと光り、間もなく「ドカーン」とすさまじい爆発音が響き渡りました。

頭全体が揺さぶりをかけられたかの様な衝撃でした。

原爆が落とされた直後は、まだ新型爆弾とわからなかったと思うのですが、飯室の人たちはどのような反応でしたか?

「祇園(ぎおん)にある三菱の工場に爆弾が落ちた。」「飯室に近い可部(かべ)に爆弾が落ちた」といった様々な臆測やデマが飛び交い、正しい情報がわからない状況でした。

8月6日のお昼少し前、私自身が大きなショックを受ける出来事がありました。

飯室駅の待合室の近くで近所の子供達と遊んでいたところ、広島から来た列車が駅に到着しました。同時に傷ついた人々が中からドーっと雪崩のように出てきて、プラットフォームに次々と積み重なって倒れたのです。

電車の中で何があったのかと思うほど、みんな血まみれの状態で傷を負っていました。

大人達が「子供は邪魔をするな!帰りなさい!」と叫んで、大混乱となっていた光景を覚えています。

広島で見た風景

飯室から広島市内に戻られたのはいつですか?

8月9日です。広島の実家が気になり、祖母や叔母たちと飯室を夜明けに出発して、線路沿いの脇道を歩いて己斐へ向かいました。
到着した時には真っ暗になっていました
家は無事で、母と兄、弟、妹は自宅の土蔵にいました。再会をした時は本当に嬉しかったです。
出張中だった父も、8月12日に出張先から無事戻ってきました。

しかし、母方の伯父は、いまだに行方がわかりません。
伯母も8月6日の夕方に重傷を負いながら自宅へたどり着きましたが、8月19日に悶え苦しんで亡くなりました。

広島市内に戻る過程で、印象に残っている出来事はありますか?

三篠(みささ)国民学校に建っていた立派な講堂が、原爆後に骨組だけになっているのを見た時は啞然としました。
また、横川(よこがわ)鉄橋の近くの河川敷で、お腹が大きくふくらんだ2匹の牛の死骸を見ました。象の死骸と勘違いしたほど、大きく膨らんでいました。

和田さんが疎開前に通っていらっしゃった己斐小学校は、原爆被災者の焼き場として使われていましたが、その様子は覚えていらっしゃいますか?

はい。よく覚えています。

己斐小学校には運動場が2つあります。大きい方の運動場に、細長い穴が何本も掘られ、市内から運ばれてきた遺体を焼いていました。その時の臭いは酷いものでした。

被爆後、学校が始まってから焼き場になっていた運動場に先生や生徒たちでサツマイモの苗を植えました。

しかし、葉や茎は勢いよく繁るのに収穫を期待したイモは指のように小さいものばかりでした。

仕方なく蔓と茎だけを持ち帰って佃煮にして食べました。

戦後の広島の風景で、印象に残っていることはありますか?

復員兵の姿が一番印象に残っています。

敗戦後、戦地から兵隊さんが日本へ戻ってきました。その中には、負傷して手足を無くした人たちもいて、デパートの前や、人目につく所でアコーディオンを弾いて物乞いをしていました。

その姿を見た時は、子ども心にも「可哀想だな。」と思いました。

戦時中は最前線で雄々しく戦っていた人が、このような姿でいるのが理不尽で、気の毒でした。

戦後に、母と歩いた爆心地の様子も印象に残っています。

8月15日の終戦の日から数日経った後、母から「市内の様子を見に行かない?」と誘われました。

己斐から爆心地までは、川を幾つか越えなくてはいけません。

鉄橋も橋も全て壊れていたので渡れず、干潮を見計らって、川を渡りました。

今の本通りの近くにさしかかった頃、母が「ここは、きっとキムラヤがあった場所よ。」と指さしました。キムラヤは、パフェやアイスクリームを食べることが出来る私の大好きなお店でした。

付近を見ると、キムラヤのマークが刻印されているお皿が、熱で溶けた瓶や原料のわからないガラスと混ざって1つの塊になっていました。

「これはひどいことがあった証拠になる。後世に残したいね。」と話して、それなりに重さがあるにも関わらず、自分のリュックに入れて大事に己斐へ持ち帰ったのを覚えています。

語り始めたきっかけと若い人たちへのメッセージ

和田さんが原爆の話を語り始めたきっかけを教えてください。

今から7、8年前に、幼なじみのお寺の奥様を介して当時の己斐小学校の校長先生から被爆証言のご依頼をいただいたのがきっかけです。
対象は4年生~6年生でした。
私が被爆した時の年齢が8歳でしたので、同じ年頃の4年生を担当しました。

小学生に向けてお話をされた中で、印象に残っているエピソードはありますか。

質疑応答の時間に、ひとりの男子生徒から「戦時中は物がなかったと言いますが、どうしてお店に行かないのですか?」と聞かれた時は驚きました。

「お店に行っても、買える品物がないのよ。」と答えても、ピンと来ないようでした。

物が欲しくても買えないという時代背景をしっかり伝えていかないと、今の子どもたちには戦時中の生活がイメージしにくいということが、語り始めた当初は気づきませんでした。


「この世界の片隅に」といったアニメなどで、当時の生活を事前学習するといった方法を取るといいかもしれませんね。

そうですね。年齢にもよるかもしれませんが、アニメを見て学ぶと当時の生活をイメージしやすいかもしれませんね。

最後に、若い世代に伝えたいメッセージがあればお願いします。

被爆証言は沢山の方がされていますが、この目で見たことをお伝えすることが出来るのは、当時小学3年生だった私たちが最後の世代だと思います。

2才年下の弟とは、原爆に対する記憶の捉え方や表現の仕方にも違いがあるように思えます。

1つの事実でも、人によって様々な捉え方があります。

話す内容には責任が伴いますので、私自身もいい加減なことを安易に話さないように気をつけながら、次の世代の人たちに原爆のことを伝えていきたいと思っています。

若い世代の皆さん、人生の中には意味が無く、無駄な時間はありません。

「一瞬一瞬を大切に生きること」が、何よりも重要だと思います。

戦争のない世界で、その大切な一瞬を積み重ねていきましょう。

2020年10月 取材