継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 7 2016.6.20 up
核兵器は私の経験のように、残酷な被害を生み出してしまうということを伝えたいです
佐藤 良生Yoshio Sato
神奈川県在住 被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から1キロで被爆され、現在神奈川県にお住まいの佐藤さん。
8月6日当日の体験と現在の想いを伺いました。
8月6日当日のこと
佐藤さんが被爆された時の年齢を教えてください。
現在85歳で、被爆をしたのは中学3年生の14歳の時です。
8月6日のことを教えて頂けますか?
当時、私は広島高等師範学校の附属中学特別科学学級にいました。特別科学学級とは何かというと、 あの時代学生たちは工場動員に行くのが普通だったのですが、戦争が終わった後に少しは勉強した人が残っていなくてはいけないということで、 工場動員に行かなくてもいい学級が昭和20年1月に出来たのです。
私は同じ特別科学学級にいた自分より2歳若い1年生の弟と、広島の北部にある東城というところに疎開していました。食糧事情が非常に良くなくて、そこら辺にあるものを捕まえて食べるというのが日常茶飯事でした。当然、体の弱い人から具合が悪くなっていって、私の弟も体調を崩しました。先生から「弟を連れて一度広島の家に帰りなさい。」と言われ、8月4日、つまり原爆の2日前に爆心地から1kmにある家に帰ってきたのです。
8月5日の晩は、瀬戸内海の周辺の街が空襲を受けていて、夜中じゅう、空襲警報が出ていました。私たちは火事になったら水をかけて消すために起きていました。
8月6日の朝、父は朝から四国に出張に出かけました。家には私と母、妹と弟の4人がいました。
私と弟は前日の空襲警報のため眠くて、父を送り出してからは布団にもぐって寝ていました。母は庭で洗濯物をしていて一番下の妹は、母の周りをウロウロしていました。
爆発の衝撃で目が覚めたと思います。倒壊した家から這い出して周りを見ると、見渡す限りすべての家が潰れており、とんでもないことになったと、その時に感じました。火が2、300メートルところまできていたので、救い出した母と妹と弟を連れて近くの空き地に避難しました。火事の熱風が襲ってきて、その熱を避けるために深さ1メートルぐらいのコンクリートの防火用水にドボンと入り、頭まで潜って出るのを繰り返しました。防火用水には、ボウフラが沸かないための殺虫剤が撒かれていたので、汚水を飲んでは何度も吐きました。
夕方遅く、火事がおさまった後は、どこに行けばよいのかわからなかったので、火のない場所へ歩いていき、その途中に土管の中にアルミのお弁当箱があるのを見つけました。ふたを開けると真っ黒でしたが、朝から何も食べていませんでしたから、
上の焦げたところをはいで、その下の白飯にむさぼりつきました。
そこで救援トラックに拾われました。トラックには子どもや大人たちが大勢乗っていて、みな皮膚がズルッとむけていました。
トラックは軍の施設に向かいました。自分が住んでいた町の方向に目を向けると、あたり一面真っ赤でした。それを見て、これからどうなるのだろうと思いました。
施設では、若い母親が死んだ赤ん坊をギュッと抱いていたり、全身やけどをした青年に蛆が沸いていたりするのを見ながら過ごしました。
数日後、四国から戻って私たちを探していた父と再会しました。父は焼け跡の台所にあった場所で、 お米を入れていた一升瓶のガラスが溶けた塊を見つけ、家族みんな死んでしまったと思っていたそうです。 奇跡的な再会を、涙を流して喜びました。
終戦後のこと
8月15日の終戦後、父の知り合いの家にお世話になり久々に布団で寝ました。
安心したのも束の間、しばらくすると朝起きたら枕に髪の毛がいっぱいついて、頭を掻けばバラバラと落ちていくようになりました。
そして、ほとんどの髪の毛が抜けてしまったのです。
母も同じ症状になりました。
何か月か経った後、髪の毛がはえてきましたが、細胞が弱っていたのか、放射線のせいか、毛が細かったのを覚えています。
8月下旬、広島北部にある庄原町に移り、家族みんなで過ごせるようになりました。
しかし私と母、妹、弟は高熱を出して入院し、被爆して約1か月後には母が亡くなりました。
私や兄弟たちは原爆に対することがなにもわからない中、健康な人から血を分けてもらい、注射を打つことを続けました。
その甲斐もむなしく一番下の妹も翌年の3月に亡くなりました。
父は再婚して、母ができました。その後、小田原に行きました。
佐藤さんは被爆者健康手帳を県外で取られたということですが、広島ではあえて取得されなかった方もいらっしゃると聞きます。
そうですね。被爆者ということを表向きにしてしまうと、就職に不利だったり、縁談が破談になったりすることがありました。
ですが、私は特に気にしませんでした。昭和32年に法律が出来た後、大阪で手帳を取りました。
被爆者に対する差別は、私自身も体験しています。
被爆後に住んでいた庄原町で、髪の毛が抜けた頭を帽子を被り隠して歩いていると、同い年くらいの子に「ピカドン」と名指しをされて石を投げられた時は、ものすごく寂しかったです。
厚生労働省がいろいろと制度を決めていて被爆者に対し各県統一された手当や教育もありますが、やはり、県によっては対応の違いが出ていると思います。
今伝えていきたい想い
神奈川県原爆被災者の会の会長として活動され、海外でも講演されているそうですが、反応はいかがでしたか。
はい。最初に行ったのがバンクーバーで、他にもアメリカ、ベルギー、イギリス、サウジアラビアなどでお話しさせていただきました。
話した後はアメリカを含む皆さんが拍手をしてくださいました。
最後に、何を今一番伝えたていきたいかを教えてください。
核兵器は私の経験のように残酷な被害を生み出してしまう。ということを伝えたいです。
小学校に行って講演する時には、親や友人、親戚に今日聞いたことを伝えてくださいと、いつもお願いしています。
2、3年経てば私の被爆体験の話は忘れられてしまうかもしれませんが、ごくわずかな人でも心に残って、覚えていて頂けたらと思います。
私は、核兵器の廃絶を使命と思い、これからも体調の許す限り活動を続けていきたいと思っています。
2016年6月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。