継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 18 2022.6.29 up
母が「敬子ちゃん、死ぬのは怖くないからね。死ぬのは怖くないのよ。」と言った時「ああ、あの飛行機から爆弾が落ちてきて死ぬんだな。」と思いました。
中川 敬子Keiko Nakagawa
被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から西に3.4キロ離れた己斐(こい)で被爆された中川敬子(86)さんに、小学生から社会人までの25名がインタビューを行いました。
中川さんのご家族について
中川さんは何歳の時に原爆に遭われたのですか?
国民学校4年生の時です。
今は、国民学校のことを「小学校」と呼びますね。
9歳でした。
当時9歳だったおばあちゃんがここにいます。
中川さんにご兄妹はいらっしゃいますか?
はい。3人姉妹で、私は長女です。
本当は4人姉妹でしたが、三女は1歳8か月の時に、風邪をこじらせて脳膜炎で亡くなりました。
原爆に遭った日は、32歳の母、9歳の私、6歳の次女、生後7か月の妹が広島にいました。
お父様は、広島にはいなかったのですか?
はい。父は戦時中、北京の領事館に勤めていたので広島にはいませんでした。
私も昭和16年8月から約2カ月ほど北京に住んでいたことがあります。
北京にいた時は、父・母・私・妹(次女)の4人家族でした。
家族全員でホテルやデパートのレストランに行き、スパゲティを食べたりして、毎日遊んでいた記憶があります。とにかく、家族が一緒にいることがうれしかったです。
しかし、黄砂がひどく空気も悪かったため、子供たちの健康に良くないという理由で、昭和16年10月に父だけを残して広島に戻ってきました。
戦前・戦時中の様子
戦前の広島はどんな町でしたか?
古い木造の家がたくさん建っていました。
デパートの「福屋」は、戦前からあったんですよ。
福屋の前には、歌舞伎座という劇場がありました。
私はひいおばあさんに、とても可愛がられていたので、映画館や、本通りにあるお店にたびたび連れて行ってもらいました。
お店では、かわいい服をたくさん買ってもらったのを覚えています。
ひいおばあさんが話す、1850年くらいの昔の広島の話を聞くのが好きでした。
彼女は大手町にある両替屋に嫁いだのですが、家の敷地内にある蔵が、百姓一揆で襲われた話や、八丁堀にはその名の通りお堀があって、毎晩キツネが出てきては「コーンコン」と鳴いていたというような話をしてくれました。
その大好きなひいおばあさんも、東観音町で原爆に遭い、私の家に逃げてきた後は血を吐いたり、血便をしたりして、8月9日に亡くなりました。
戦時中、子供たちは、どんな遊びをしていましたか?
当時はテレビも無く、娯楽になるラジオも音が途切れて聞き取りにくいものでした。
そのため、もっぱら体を動かして遊んでいました。
外では、ゴム飛び、にくだん、鬼ごっこ。
家の中では、お手玉、あやとり、カルタなどをしていました。
お手玉とあやとりは、友達とよく技を競い合っていましたよ。
戦前や戦時中は、どんなものを食べていましたか?
私が2年生の昭和18年(1943年)までは、食料にも困らず、普通に生活が出来ていました。
お豆腐や肉じゃが、卵ご飯にお醤油をかけて食べたり、母がつくった野菜のスープを飲んだりしていました。
森永キャラメルや明治チョコレートも食べていました。
でも、原爆が落とされる1年前の昭和19年(1944年)になると、食料がほとんど手に入らなくなりました。
手のひらに乗るくらいの量の配給されたお米を、家族4人で分けあって食べていました。
かまどでお粥を炊くのですが、出汁はなく、大根を1センチくらい刻んで入れたり、サツマイモやジャガイモを入れたりして量を増やしていました。
昔は土の道路だったので、家の前の溝のそばを耕してじゃがいもやさつまいもを植え、小さな畑を作っていたんですよ。
小川へ行って、セリをとったり、小エビをとったりもしました。
中川さんは、小さい頃、戦争についてどう思っていましたか?
軍国教育を受けて育ちましたので、戦争はダメだという考えはなかったです。
戦争が終わり、教育が変わってから「戦争は良くないものだ。」と考えることが出来るようになりました。
教育は大切だと思います。
今は「多様性」が尊重されていますが、昔は、人と違う考えや行動は厳しく取り締まられていました。
戦時中、母はずっと「この戦争は負ける。戦争は嫌だ。」と思っていたそうなのですが、そんなことが近所の人に知られてしまうと、警察に告げ口をされて捕まる恐ろしい時代でした。
戦時中、人種差別や偏見はありましたか?
ありました。北京に住んでいた時は、日本人が中国人を殴ったり蹴ったりしているところを見たことがあります。それ以来ずっと、北京の人には謝りたいと思っています。
戦時中には、己斐国民学校の近くでB29(アメリカの軍用機)が大砲に打たれて墜落したのを目撃しました。母と配給に並んでいた時だったのですが、打たれた後、チリチリっと飛行機が舞って、アメリカの兵隊さんが落下傘でシューッと降りてきました。周りの人たちは米兵が落ちていく姿を見て「バンザーイ、バンザーイ」と言って喜んでいました。
私は、ただただ「かわいそうだな。」と思って母の手を握っていました。
8月6日のこと
原爆が落ちた8月6日当日はどこにいましたか?
爆心地から西に3.4キロ離れた「己斐(こい)」にある自宅にいました。
北京から日本に戻った後、私たちは、広島の中心地に近い天満町(てんまちょう)から、爆弾が落ちても助かりそうな郊外の己斐に移り住んでいました。
当時の己斐は、畑ばかりの田舎だったんですよ。
原爆が投下された時のことを教えてください。
8月6日も学校はありましたが、私は前の晩に熱を出していたので学校をお休みし、布団の中で過ごしていました。
庭に植えられているビワの木の葉っぱが、太陽の光できらきら光ってきれいだったのを覚えています。
「けいこちゃん、朝ご飯を食べなさい。」と母に声をかけられたので、布団を出て、ちゃぶ台に置かれたおかゆを食べようと正座した時、パーっと光ったんです。赤に近いオレンジ色の光でした。
隣にいた母親が見えなくなるほど視界全体がオレンジ色に染まりました。
「なに!?」と立ち上がった瞬間に、ドカドカ!と音がして、家が壊れて、窓も飛び、もう本当に何が起こったのかわかりませんでした。
気づいたら、家の中は壊れてぐしゃぐしゃでした。
吹き飛んだガラスが私の体に刺さっていました。
母も怪我をしていましたが、家のカーテンにくるまれて泣いていた生後7か月の妹を探し出し、一緒に家の外に出ました。 外で遊んでいた6歳の妹は、飛ばされただけで奇跡的に怪我はありませんでした。 全員で無事を確認した後、近くの防空壕に向かいました。
熱線の影響なのか、近くの家が3軒くらい燃えていました。 防空壕は、けが人や死にそうになった人たちでいっぱいで、入ることが出来ませんでした。
しばらくすると、市内から、ひどいやけどを負った人たちがたくさん逃げてきました。
死んだ赤ちゃんを抱っこして逃げてきた真っ黒な人など、見たら怖くて震えるような人たちばかりでした。
その日の夜は、家から布団を引っ張り出してきて、己斐の山の、草がぼうぼうに生えている溝に布団を敷いて寝ました。
夜に、アメリカの偵察機が、赤い光を点滅させながらやってきました。
母が「敬子ちゃん、死ぬのは怖くないからね。死ぬのは怖くないのよ。」と言った時
「ああ、あの飛行機から爆弾が落ちてきて死ぬんだな。」と思いました。
9歳の子が死ぬ覚悟をしたというのは、今思い返してもすごいことだと思います。
原爆が落ちた次の日からの生活は、どのようなものでしたか?
寝て起きたら、世の中の全てが変わっていました。
家も壊れて、全てがなくなっていて、どうしたらいいかわかりませんでした。
心が変になっていたせいか、原爆が落ちた日の記憶はあいまいです。
原爆投下の翌日に、母から白米のおむすびをもらったことは鮮明に覚えています。
当時は、白いご飯が貴重で食べることが出来なかったので、もらったおむすびが本当に美味しくて、今でもあの味は忘れられません。
「このおむすびはどこから来たの?」と母に聞くと「岡山の方からかね?」と言いました。
母は、広島県全体が壊滅したと思っていたようです。しかし実際は、広島市の西北にある石内村の婦人会の人たちが作ってくれたものだということを、ずっと後になって知りました。
他に覚えていることとしては、生後7か月の赤ちゃんをおんぶし、服の裾をつかんで歩く私と妹を引き連れて、近所に井戸水を貰いに行く母の姿です。
戦後の生活
学校はいつ再開したのですか?
「5年生の時に学校が再開して、時々午前中に通っていた。」と同級生の友人が言っていたので、原爆が落とされた次の年までには学校が始まっていたのだと思います。
私自身は、6年生の時に勉強をしていた記憶が残っています。
戦時中の3年生、原爆が投下された4年生、戦争が終わったばかりの5年生は、ほとんど勉強をしていなかったと思います。
戦時中は、アメリカの飛行機が来ても狙われにくい山の中で、小さな黒板を置いて、ゴザを敷いた上に座って授業を受けていました。
よく友人たちと「私達はえらいよね。学校でほとんど勉強をしていないのに、漢字も書けるしね。」と話しています。
だから皆さんも、少しくらい学校をお休みしても大丈夫ですよ(笑)
通っていた己斐小学校は、戦後、運動場が死体の焼き場になりました。
臭いがひどく、何か月も臭かったのを覚えています。
戦後の広島の町の様子を教えてください。
原爆が落ちて3年後の昭和23年には、受験で受かった広島女学院という女子校に通っていました。
己斐から女学院へ通う電車はいつも満員で、朝はぎゅうぎゅうでした。
当時、ストライキが流行っていて、すぐストライキで電車が動かなくなりました。そんな時は己斐から歩いて学校まで向かいました。
昭和21年、22年、23年頃は本当に食べるものがなく、お百姓さんの所に着物を持って行ってお米に変えてもらうこともしばしばありました。
もらったお米をお粥にして食べたり、麦を入れて麦ごはんにしたり、お米自体がどこにあるのかわからないようなご飯を食べていました。
配給では、一斗缶にいっぱい入ったじゃがいもや、砂糖が配られました。一斗缶ってわかりますか?四角形のスチールで出来た缶です。
もらったじゃがいもをゆでて、つぶして、砂糖を入れて、お酢を少し加えると今のポテトサラダみたいになるんです。それが大好きでよく食べていました。
戦後は家も壊れたままで、みんな本当に貧乏でした。
男性はたくさん戦死していたので、お父さんがいない子供たちが、たくさんいました。
伝えていきたい想い
8月6日のことを、このように子供や若者に向けてお話をしようと思われたきっかけを教えてください。
正直、70代になるまでは原爆について話すのは、嫌でした。思い出したくない出来事だったからです。
でも、「直接原爆を体験している私だからこそ、未来を担う若い世代の人たちに話さなければいけないのではないか。」と思いはじめ、76才くらいから依頼を受けたら話すようになりました。
中川さんは、今の日本は、平和だと思いますか。
今は、平和だと思います。でも、2022年にロシアとウクライナの戦争が始まり、世界全体がきな臭くなっているので、世界大戦にならないように願っています。
話し合い以外の解決策だと、中川さんは他に何があると思いますか?
難しい質問ですね・・・わからないです。
難しいですよね。 「戦争はだめ」と、口で言うのは簡単ですが、「戦争が起こる原因」や、「起こさないためにはどうしたらいいか。」を、ここにいる人たち全員が考えていかないといけないと思います。
そうですね。私は、今の平和がとても嬉しいと感じていますし、今日まで生きることが出来て本当に良かったと思っています。
大好きなおばや、ひいおばあちゃんが原爆で死んだ時は、心が麻痺していて泣けませんでした。今になって涙が出ます。原爆にあって理不尽な死に方をしたことが悔しいです。
核兵器は絶対に使ってはいけないものです。
繰り返される戦争が、いつになったら終わるのか。
戦争のことを思うと、胸が切ないです。
中川さん、貴重なお話をありがとうございました。
2022年6月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。