継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 3 2015.6.6 up
心と身体の「ふれあい」があれば、争いは起きない。
河野昭人Akito Kono
被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から4.1kmの軍需工場内で被爆し、その後すぐ家族の安否を確認するため市内に入られた河野昭人さん。
当時としては珍しく「戦争をするのはつまらないことだ。」と思い、軍人として出世を望む父親とけんかをす
るような青年だったそうです。河野さんから見た70年前の8月6日をお伺いしました。
18歳の時の河野さんについて
河野さんは大変お元気ですね。現在おいくつでしょうか。
88歳になりました。被爆したのは18歳のときです。
18歳というと学生だと思うのですが、当時、戦争をどう捉えていらっしゃいましたか?
お国のために全てを捧げるのがあたりまえの時代でした。
父は、私が早く軍人として出世することを望んでいました。
軍人として戦死することは名誉なことだと教育されていましたので、同級生の多くは「予科練」と呼ばれた海軍飛行予科練習生にあこがれ、志願する者もいました。
その中で、私はかなりの変わり者だったのだと思います。
「戦争は命を落とす つまらないものだ」と思っていました。
あの時代にどうしてそう考えていたのかは自分でもよくわかりません。
「その時代に戦争を否定するのは、とても勇気がいることではなかったでしょうか?
そうですね。父からは「志願して早く戦争にいけ。」と言われ、私は「犬死にしとうない。」と言って、よくケンカをしていました。「日本はいざというときには神風が吹く。」と信じている同級生たちとも言い争いになり「非国民じゃ。」と言われたこともありました。
国全体が、戦争をすることをよしとしていた時代ですよね。
「天皇は現人神だ。」「最後のひとりまで戦え。」という教育でした。
二十歳になる前に徴兵検査がありましたが、他の人は甲種合格(検査結果の第一級の合格順位。)になりたくて、視力検査の時に、片目で見るものを両目で見たり、線より前に出たりしていました。その反面、私は見えるものを「見えません。」と言っていました。国の考えに反する言論や行動を厳しく統制されていた時代でしたので、今思うと大胆なことをしたと思います。
8月6日当日の様子
8月6日のことを教えて頂けますか?
当時は電気学校という専門学校に通っていました。
2年生になると 戦況悪化のため授業はなくなり、食料を加工して缶詰などを製造する軍需工場で働く毎日でした。
仕事場は安佐郡祇園町長束(現在の広島市安佐南区)にある「吉村酒場」で、その日も自転車で仕事場に向かい、作業着に着替えて同級生を待っていました。
突然ピカッと光り「こんな昼間に焼夷弾を落としたのだろうか?」と思った瞬間「どどーん!」と波がきて吹き飛ばされて、意識を失いました。目が覚めたら4~5m飛ばされていました。
爆心地から遠かったこともあり怪我はなかったのですが、もし建物に入るのが数分遅かったら原爆の光を直接あびていたと思います。
目が覚めた後、どうされたのですか?
何が起きたかわからず、仕事場裏の防空壕まで走りました。
その後、母や弟妹たちが心配になり自転車に乗って広島市内へ向かいました。
三篠橋のところまでいくと橋が歪んでとても渡れそうになく、他の道を選びながら中心部に入りました。
市内に入ると、電車は真っ黒こげで骨組みだけ、馬車は倒れて馬が死んでいる。
途中ですれ違ったおじさんから「頭が痛いからみてくれ。」と言われて、見ると血が吹き出している。気の毒でそのまま伝えることが出来ず「おじさん、かすり傷よ、元気を出して。」と別れました。自転車が途中パンクして引きずりながら家のある牛田まで帰りました。
爆心地付近を通って帰られた、ということになりますね。
はい。川の中は水をもとめる人たちであふれていました。
助けてあげればよかったと思いますが、その時は自分と家族のことだけを考えるのに精一杯でした。
どうして原爆投下前に空襲警報も警戒警報も発令されていなかったのか。
発令中であればもっと多くの人が助かったのに。と悔しく憤りを感じます。
平和への想い
原子爆弾を落としたアメリカに対して、今の河野さんの率直なお気持ちを教えて頂けますか。
事情が事情ですから胸の中ではわだかまっています。憎い気持ちもあります。複雑な心境です。
でも、一対一、人対人になると別です。
最近は、ご縁がありアメリカの人たちを含む海外の方々と交流があります。
先日はオランダの方が家に来られましたが、一緒に餅つきをしたりもしました。
最後に、これからの世代の人たちへ、メッセージを頂けますでしょうか?
戦争には愛がない。心のふれあいがない。
愛という漢字は 一(ヒト)ツは(ワ)心のふれあいと書く。
心がふれあえば、次に握手。身体のふれあいがある。
心と身体の「ふれあい」があれば、争いは起きない。そう思います。
そして「親」。親は「木の上に立って見る」と書きますよね。
子供の目線ではない。広くみたものを子供に伝える。それが親の役割ではないでしょうか。上に立つ人が判断を誤ってはいけない。命を大事に、愛をもって判断を誤らない人間になってください。
2015年6月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。