継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 12 2018.4.23 up
広島、長崎に行ってみることです。現地に行かないとわからないことを自分で感じてください。
そして、多くの被爆者の声をよく聞いて、自分で何ができるかを考えてください。
木村 緋紗子Hisako Kimura
被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から1.6キロ地点の大須賀町で被爆され、今も「宮城県原爆被害者の会」の事務局長として活動されている木村 緋紗子さん(81才)に語り始めたきっかけや、伝えていきたい想いを伺いました。
語り始めたきっかけ
今年の継ぐ展が初の仙台・東北開催ということで、地元にお住いの被爆者である木村緋紗子さんにインタビューをさせていただくことになりました。本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
木村さんは広島生まれ。現在は仙台市在住ですが、いつからこちらに移り住んだのでしょうか。
私は昭和12年生まれで、今年で81才になります。
22才のときに広島から東京に移りました。その後、昭和46年に山形に移り、昭和53年に仙台に来ました。仙台に来て40年になります。
「宮城県原爆被害者の会」の事務局長をされていらっしゃいますね。こういった核兵器廃絶を求める運動をはじめられたきっかけを教えてください。
私の場合は、原爆によって私の人生が大きく変わった悔しさから。そして、原爆で亡くなった父の「無念でならぬ」という言葉があったからです。
もちろん、自分の子どもや孫を守りたいという気持ちもあります。私のようなつらい思いを二度としてほしくないとの思いから活動しています。
運動は何年続けていらっしゃるのですか。
運動歴は約50年です。
東京にいた頃に母と一緒に始め、山形にいた8年間は活動せず昭和53年に仙台に来て再開しました。
広島、長崎で原爆投下によって21万の方たちが亡くなりました。
その人たちの無念さを晴らすために、憎しみを訴えに変えて運動を続けています。
8月6日当日のこと
原爆投下の日、木村さんは何才でしたか。
8才でした。当時、自宅は広島の中心部の堀川町にありました。
爆心地から0.7km、現在PARCO新館がある場所です。
被爆前、父は内科医を開業していました。
8月6日以前の私の家には、婆やさんや、姉やさん、車夫さんもいて、ダットサンの自動車もありました。
当時は裕福な家庭でした。被爆後、その幸せな生活から180度変わりました。
ご家族は何人ですか。
父母2人と、兄弟は男3人と私の6人です。家族全員被爆者です。
木村さんが被爆された場所はどちらですか。
私が被爆した場所は爆心地から1.6キロのところにある大須賀町という場所です。
母方の別荘にいて、祖父の家族と一緒に被爆しました。
原爆投下直後のことは覚えていません。
気が付いたときには、崩れた家のがれきの中から屋外に出され呆然としていました。
夜のような異様な暗さと、なんとも言えない臭いに驚きました。
屋外にいた祖父は、全身やけどで身体の皮膚はずるむけでうめき声をあげていました。
私は祖父の様子を見て恐怖心を抱き、この瞬間、何が起きたのかわからない状態でした。
その後、負傷した祖父を抱え、伯父たちと一緒に母の故郷(広島県尾道市)に逃れました。
母は父の安否を訪ね、市内をまわりました。
原爆投下から3日後の9日の朝に再会した時、父は全身やけどで顔がむくみ、赤鬼のような姿になっていたといいます。
父は自宅付近で看護婦を連れて往診途中に被爆したそうです。
連れの看護婦は爆風で飛ばされ、未だに行方不明者になっています。
9日の夜、息を引き取った父の最期の言葉は「俺は無念でならぬ。子らを頼む」でした。
42才で息絶えました。当時、母は33才です。
被爆して負傷した祖父は、尾道に逃れた後、大きな仏間に横たわり、「熱い、熱い」とうめき声をあげていました。身内全員で看病しました。
私も1週間、看病しましたが、そのときの臭いは臭くて耐えられないほどでした。
「なぜ、私たちがこんなことをしなければならないのか。」と肉親ながら思ってしまい、「もう、死んでくれ。」とさえ思いました。
それを今、とても悔やんでいます。あの時のことを考えると胸が詰まる思いです。
あんなに優しかったおじいさんは、12日にあの世の人となりました。
母は自分の夫を原爆の3日後に亡くし、父親を1週間後に亡くしたのです。
とてもつらかったと思います。
被爆後、木村さんのお身体に放射能の影響はあったのでしょうか?
私は81才まで生きる事が出来、幸せな被爆者だと思っています。
今日まで、子宮がんや白内障、両足の骨粗鬆症の手術を含めて7回、体のあちこちを手術しました。
しかし、これらを原爆のせいとは言いたくありません。真偽が定かではありませんから。
原爆のせいだと言えるのは「私の人生を変えた」ということです。
東日本大震災と原爆
木村さんは、被爆者でもあり、2011年3月11日に起きた東日本大震災も経験されていらっしゃいます。
広島にいる私の祖母が、震災の様子をテレビで見た時「原爆のことを思い出した。」と話していたのですが、木村さんご自身は二つの体験をどのように捉えていらっしゃいますか。
震災当日は、着物を洋服に変えるリサイクル屋さんにいました。
古い建物でしたからかなり揺れました。
周りの人たちはとても慌てていたけれど、私は「死ぬときは死ぬのだから」と落ち着いて椅子に腰かけていました。きっとあの被爆体験で度胸が据わったのでしょうね。
その後、宮城県原爆被害者の会の事務局長という立場から、被爆者の安否確認のために動きました。
騒然とした町の様子を見て「ああ―。これは原爆投下の時と一緒かもしれない」と思いました。
だけど、すぐに「違う」と感じました。
何が違う、と感じられたのでしょうか?
天災と人災は違うと思いました。
復興の過程も大きく違うと思います。原爆被害にあった私たちは、原爆被爆者援護法が施行されるまで12年間、大きな援護もなく助けもなく、生きて行く過程で自分たち自身で復興をせざるを得ない環境でした。
今の時代は国内外から援助をしてもらえ、守ってもらえます。そこが大きな違いだと思いました。
今伝えていきたい想い
若い人たちでも出来る、身近な平和へのアクションは何だと思いますか。
まずは広島、長崎に行ってみることです。現地に行かないとわからないことを自分で感じてください。
そして、多くの被爆者の声をよく聞いて、自分で何ができるかを考えてください。
自分たちの未来を考えていくことは、被爆国に住む若い人たちの責務でしょう。被爆者も語るのはつらいのです。だからしっかり受け止めてください。
背筋が伸びる思いです。最後に、被爆体験を語り継いでいく中で、何を一番伝えていきたいですか。
やはり伝えたいことは、核は絶対に悪です。核兵器廃絶です。再び被爆者をつくってはならない事です。そして、次の世代の人たちに私たちのような思いをさせたくない。ということです。
今、月に1度、核兵器廃絶を求める国際署名を集めるために被爆者が先頭に立って街頭署名を行っています。
若い人たちに署名をお願いしても「お父さん、お母さんに聞かないとわからない」と言います。
「これは自分が考えてすることだよ。」と言っても、聞かないとわからないと答えるのです。
時代が変わったのだからしょうがないかな。という気持ちになる一方で、今、日本に核兵器が落ちてきたらどうなってしまうだろうと考えます。
私の中で、戦争体験をどのように伝えていけば若い人たちに伝えられるのか、答えは出ていません。しかし、こうやって私たち被爆者の想いを継承しようとする人たちと会うと、頑張って伝えていきたいという気持ちになります。
今は人生100年といわれています。私にはもう20年しかない。
いつまでこの運動ができるかと自問自答することもありますが、生きている限りは声を上げ続けたいと思います。
ありがとうございました。
2018年4月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。