継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 10 2017.6.21 up
被爆はしなかったけれど、生きることが出来なかった子どもたちが、2000人近くいた。 本当の戦争の姿を知ってもらいたくて、語り部をしようと思いました。
川本 省三Syouso Kawamoto
被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
両親や兄弟を原爆で亡くし、原爆孤児として生きてきた川本省三さん(83)。
路上生活をしていた子どもたちと過ごした日々や、賭け事と喧嘩を繰り返した青年期、母の言葉を思い出して更生するまでのお話を伺いました。
語り始めたきっかけ
今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
折り鶴を沢山お持ちですが、こちらは川本さんがご自身で作られたものですか。
はい。もうこれね、20万羽くらい折りました。子供達がとても喜ぶんですよ。
私は英語が話せないけど、資料館に来る海外の人たちにこれを渡すと笑顔が見れて、仲良くなれるんです。
20万羽!すごい数ですね。何年前から折りはじめたのですか。
語り部のボランティアをはじめた8年前からです。
亡くなった子供たちの魂と共に、世界中の子供達に折り鶴を持って帰ってもらいたい。
あの時亡くなった子供たちには、もっと遊んで欲しかった。いろんなところへ行って欲しかった。
それができないから、せめて広島に来た子供達にこの鶴を渡して一緒に遊んでもらいたいと。
ただそれだけで、はじめました。
川本さんが証言をはじめられたきっかけを教えていただけますか。
30年近く岡山にいて、70歳になって広島へ帰りました。
のど自慢大会に参加した時に、運営ボランティアの方が「原爆孤児の話を聞きたい。」と声をかけてくださったのです。証言をした会場には、語り部をされている岡田恵美子さんがいらっしゃいました。
岡田さんから「あなたの体験はぜひ多くの人たちに知ってもらうべきだ。一緒に活動をしませんか。」と誘われたのがきっかけです。
今は改装中ですが、昔の(広島平和記念)資料館に行った時にね、原爆孤児の写真がほとんどなかったんですよ。「2000人から6000人の孤児が行方不明」としか書いていなかった。
これを見た時、あの時の孤児がどれだけ辛かったかということを知ってもらいたいと思いました。
被爆はしなかったけれど、生きることが出来なかった子どもたちが、2000人近くいた。
餓死もしているのに誰も知らない。本当の戦争の姿を知ってもらいたくて、語り部をしようと思いました。
語り部をされる前に、ご自身の体験をお話することはありましたか。
いいえ。広島の仲間で話をすることはありましたが、他の人たちから聞かれることはありませんでした。こちらから被爆者だと言うこともありませんでした。
8月6日当日の話
川本さんは広島出身でいらっしゃいますか。
そうです。今は大手町になっていますが、当時は塩屋町と言っていたところに住んでいました。旧日本銀行の前に私の家がありました
8月6日当日はおいくつだったのでしょうか。
袋町小学校の6年生でした。
アメリカの空襲が激しくなって、小学生は田舎に疎開させようということになり、私は今の三次市、双三郡の神杉村というところに4月から疎開し8月9日に広島に帰りました。
袋町小学校の生徒は、近隣の4つの村にわかれて疎開していました。
お寺で寝起きして、村の学校へ通う毎日でした。
私の組は男女合わせて80人くらい。最初は嬉しかったけどね。疎開した日の晩から大騒動。
シーンとした寂しい田舎だったから、3年生や4年生はお母さんが恋しくて泣き出す状況でした。
広島市内から離れた場所で迎えられた8月6日ですが、その日の様子を覚えていらっしゃいますか?
朝、学校に行く前に畑の開墾作業していました。芋を植えたりしてね。
そのうち、広島の方角に白い雲が広がりだして、皆で「あの雲、どしたんで~」と話していました。
音はしませんでした。とにかく白い雲が盛り上がっていったので、「ものすごい雲じゃのー」と話していました。夕方6時ぐらいに広島が全滅したと連絡が入りました。
全滅と聞いた時は、どんなお気持ちでしたか。
もう心配でね。状況が分からないから。
あくる日の夕方から、親や兄弟などが生徒を迎えに来て、その人たちに広島の状態を聞いても話してくれない。実家の近所のお兄さんが来たから「うちはどうだった?」と聞いても首を横に振るだけ。何も話してくれない。
8月9日に、当時広島駅の管理部に勤めていた5つ年上の姉が迎えにきてくれました。
打ち身はありましたが外見は変わらずでした。もう、嬉しくて、とにかく泣きました。
お姉さんは汽車で迎えに来られたのですか。
はい。8月7日には芸備線が通っていましたから。
姉から、母と弟と妹が家で抱き合って真っ黒になって死んでいたと伝えられました。
父と中学2年の姉はどこにいるかわからない。だけど、3人はなんとか見つけることができた、と。
そばで救援活動をしている兵隊さんを呼んで、焼きなおしてもらって骨を拾ったと言っていました。
その後、お姉さんと一緒に広島へ戻られたのですか。
はい。芸備線を使って広島駅の近くの駅まで行き、それから市内まで歩いて行きました。
もう何にもないんだから。とにかく何にもない。
姉と一緒に救護所まで歩いて、父ともう一人の姉を探しました。中はなんともいえない匂いで、講堂のような焼け跡に、ゴザを敷いてけが人を寝かせていました。その間を「川本美智子知りませんか?おりませんか?」と言って歩きました。それが3日間も続きました。私は、気分が悪くてね。もう嫌だと言ったらその後、姉一人で続けてくれました。しかし、結局二人とも見つけることはできませんでした。
原爆孤児たちの姿
お姉さんと川本さんのお二人だけが残され、その後、どのような生活を送られたのでしょうか。
市役所の厚生課長をしていた母方の叔父が無事で、救援活動をしている人のためのバラックを建てていました。一旦はそこに姉と二人で入りました。バラックは焼け跡から材料を拾い集めたり、ブリキの天板を貼ったりしてつくられていました。9月までそこにいて、その後、姉が勤めていた広島駅の一部屋を借りて生活をしました。鉄道の人の休憩室のようなところを半分に仕切って、貸してもらったのです。
8月6日以降、川本さんと同じように疎開先から帰ってきた子供たちはどうなりましたか。
親が死んでしまって孤児になった子は、約2700人いました。まず市役所に連れて行かれるんだけど、市役所も捌ききれなくなってね。700人余りは施設に入れて、それ以上は引き取る場所がないからみんな追い出された。
施設に入れなかった2000人あまりの子は、他の大人たちと一緒に橋の下などで生活をしていたんだけど、枕崎台風でたくさんの子供や大人が流されて死んでいきました。
その後、子どもたちは広島駅の周りで路上生活をしていました。年末までには、飢えや寒さで路上の子供は1000人ほど亡くなったと言われています。
ところが年が明けると、親戚などから追い出された子供が集まり始め、再び路上生活の子供の数は増えました。
原爆孤児たちの路上生活はどんな様子でしたか。
まず、食べるものがない。台風の後、芋粥の炊き出しがあったけれど、500~600人分くらいしかない。 食べることが出来なかった子は、鍋の底のスープをタオルに浸してそのタオルをしゃぶっている。炊き出しは毎日じゃありません、週に2回くらいです。10月か11月に入るとそれも無くなって、それから孤児たちは、だんだん死んでいきました。
死んでいった子どもたちは、ゴミと一緒に投げ込まれて焼かれました。
持って行くところがないから焼くんですよ。物と一緒ですよ。
孤児だった子が食べたものはね、朝読んで捨てられた新聞、それが食べ物だったんですよ。 柔らかいものはそれしかなかった。草も生えていないんだから。1枚だけの新聞を取りあいっこして水と一緒に流し込んで、それで死んでいった。その子たちのことはほとんど知られていません。
そのような状況はどれくらい続いたのでしょうか。
しばらく続きました。ヤクザのお兄さんたちが孤児の世話をしました。靴磨きの道具を貸してくれたのも彼らです。「焼け跡から鉄くずを集めてこい!」「駅のタバコの吸殻も金になるから集めろ!」と子どもたちに指示を出していました。
ヤクザのお兄さんたちが屋台で野菜を集めてきて子供たちが雑炊を作り、1杯5円で売らされて余ったものを子供たちで分けあって食べる姿を私は見ています。
その後、駅前は闇市でいっぱいになり、そういうことが出来なくなりました。
ヤクザのお兄さんも、広島市に雇われて現場監督の仕事をし始めたから、子供達はほっとかれた。
だから子供達は5~6人ずつグループ作っていろんな店を襲い始めたんですよ。
「襲う」というのは強盗のようなことですか。
そう。最初は食べ物。店に入って「うどん一杯~!」「パンをくれ~!」と言って、くれなかったら暴れて店を壊す。店の人も2~3人なら食べさせてくれるんだけどね。それが続くと追い払われる。
そのうちに復興事業が始まってね。ヤクザのお兄さんたちが監督して、橋をかけたりする仕事が始まった。
その人集めに、孤児だった子が使われ始めました。
それは何年頃ですか?
昭和21年頃です。一人100円の日当で雇われました。
広島が本当の意味で平和の街になってくるのは原爆が落ちてから25年経ってからですよ。
広島の戦後10年間の記録はほとんど残っていないんです。
ヤクザの街。まともな生活をしている人はほとんどいなかった。
25年経って国会で暴力団を取り締まろうという法律ができて、そこから警察が本腰を入れて暴力団を抑えてくれた。その時からはじめて広島の復興が始まったんですよ。
広島というと、ヤクザ映画のイメージを持たれている人も多いかもしれませんね。
当時の暴力団の喧嘩を映画にしているけどね、あんなもんじゃないんです。
ヤクザのお兄さんが持っているのは出刃包丁や拳銃。あとは棒で叩き合いっこですよ。
とにかく相手が動かなくなるまでやるんだから。途中で手を休めたら、そいつが息を吹き返したら倍の仕返しを受けるから。みんなそう仕込まれるわけですよ。
そんな時代だからね。本当の広島の復興に関しては話せない人が多いんです。
最初に来た暴力団の人は、ある程度仁義があって、素人さんには手を出すなという教育をみんな受けていた。 ところが、孤児になった子がその仲間に入るんだから、そういった仁義は全く無視されることになります。 麻薬が流行りだしてね。ヒロポンを売りながら、自分が麻薬中毒になってね。 これが怖かった。突然暴れ出すんだから。そういう人たちが多かった。
今の広島になるまでに、そんな歴史があったのですね。
当時は、みんな毎日をどのようにして生きていこうかという人ばかりでした。
バラックがあちこち建っていたし、とにかく、生きるのに必死だった。
食べ物を持ってる人を見つけると、その人を倒して持っているものを奪って生きた。
憎いからじゃない。とにかく生きたい!という気持ちだけで行動していました。
賭け事とけんかを繰り返した青年期
大人になるまではどのように生きて来られたのですか。
11歳になる少し前、姉が白血病で亡くなりました。
叔父が私を引き取りに来てくれたんだけど、すぐ施設に入れようとしてね。でも施設はいっぱいで入れない。叔父が役場の人とやりあっているのをみかねた川中さんという村長さんが、私を引き取ってくれました。そして「川中醤油」というところで働きはじめました。
11歳からずっと働かれたのですか。
ええ。その醤油屋さんも、半分は農家のような状態でね。
川中さんが、「真面目に働いたら家を建ててやる」と言ってくれたから、とにかくそれを信じて頑張った。給料はないんだよね。11歳だから。だけど、食べれた。腹一杯食べれたからね。とにかく頑張った。
18歳の時にその土地の青年団に入って、20歳の時に青年団の団長になった。
23歳の時に川中さんが約束通り家を建ててくれてね。青年団の中に好きな子がいたから、いよいよと結婚だと、彼女の親のところに行ったんです。
すると「あの時広島におったろ?広島におったもんは放射能に汚染されとる。あんたと結婚をさせたら障害を持った子が生まれる。」と言われて断わられたんです。
もう、ショックでね。まさかそんなことで断られるとは思っていないから。
頑張って家も建ててもらったのに、結婚が出来ない。
結婚が出来ないのに家なんかあってもどうしようもない。これから自分一人で生きる、もう誰の世話にもならん。と、川中醤油のある沼田から広島市内へ飛び出しました。
それから恋愛はされなかったのですか。
それどこじゃないです。それからヤクザ、暴力団の仲間ですよ。車の免許証を持っていたから小さな運送会社に就職して仕事には困りませんでした。だけど給料が入るとね、周りのヤクザのお兄さんたちから賭け事に誘われるんです。喧嘩といわれたら竹棒を渡されてね。あちこち助っ人に引っ張り出されて「叩け、叩け。」と。
そんなことをしょっちゅうしていました。
他に仲間はいないんだから。みんな私と同じ孤児だった子たちも仲間に入ってるんだから。当時、病院で200ccを2本、1200円で血を買ってくれたの。血を売ると10日ばかり食べていけたんですよ。月に1回血を抜いて売って。ブラブラと。気が向いたら仕事して給料をもらう。そんな生活をしていました。
結婚はしなかった。もう2度と嫌な思いをしたくなかったから。
生前の母の言葉と次世代へのメッセージ
30歳の時、交通違反の反則金が支払えず免許証を没収され、働けなくなり、生きる意味を見失いました。死に場所を求めて汽車に乗り、岡山駅で降りたんです。すると、駅前のうどん屋で「住み込み店員募集」の張り紙を見つけました。これを見た時に生前の母の言葉を思い出してね。
どんな言葉ですか?
「お前はやればできる!できないのはお前が途中で諦めるからだ。諦めるな!」という言葉です。
うどんの経験はなかったけど、このうどん屋さんで使ってもらえるのであれば、もう一度人生をやり直してみようという気になりました。そこから私の第二の私の人生が始まったんです。うどん屋で3年働いた後、天満屋の社員食堂で5年間頑張った。40歳になった時に、親しくなった仲間5人でスーパーに弁当や惣菜を卸す会社を立ち上げた。50になった時には独立し、水島方面で自分の会社を立ち上げ10年間頑張りました。70になった時に広島へ戻ってきました。
時代を生き抜いてこられた、と感じます。次世代の子供達や、私たちに向けて伝えたいことはありますか。
子供達には自分で自分の身を守るだけの力を持つ人になってもらいたい。そのためには教育が大切です。
お父さん、お母さんたちも、子供達と向き合って、もっと教えてあげる必要があるんじゃないかと思っています。
今、画面や携帯越しで話しあっていますけど、向かい合ってお互いのことをちゃんと知ることが必要です。
私は、たまたま仕事を見つけて生きてこれました。しかし、見つけられなかった仲間は、日雇いの仕事しかしていないんです。70までは働ける。でも、80近くになったらもうできない。保険も入っていない。年金もない。一部の仲間たちは今、刑務所に入っているんですよ。刑務所に入れば食べれて、風呂もあるんです。だから窃盗を繰り返しては出たり入ったりしている。生活保護費だけでは生活できない。
そういった人生を送らないためにも、やはり親はこどもたちと、もっと真剣に、将来のことを話し合ってもらいたい。自分が何を信じるか。それが正しいかを見極めるにはいろんな人たちからの意見を聞くこと。
そういった機会をつくっていってもらいたい。今はそれができるんだから。
貴重なお話をありがとうございました。
2017年6月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。