継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 8 2016.6.23 up
50人に証言をしたらその中の1人でいいんです。 自分がやりたい、伝えたいという気持ちになってほしいと思います。
梶本 淑子Yoshiko Kajimoto
被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から2.3キロ地点の三篠で被爆された梶本淑子さん(85歳)。
当日の様子や、今伝えていきたい想いを伺いました。
8月6日当日のこと
今日はよろしくお願いします。梶本さんが被爆された時の年齢を教えて頂けますか。
14歳です。
場所はどちらですか?
爆心地から2.3キロ離れた三篠という場所で被爆しました。
当日のことを教えてください。
前の晩に二度空襲警報が出たため、ほとんど眠れなかったのを覚えています。 あの日は朝からとても暑くて、友達と「眠たいねー、暑いねー。」と言いながら飛行機の部品を作る工場に向かいました。
8時15分、窓ガラスに青い光がパーッと流れるのが見えました。本当にきれいな色でした。「爆弾だ!」と思って、すぐ目と耳と鼻をおさえて機械の下にもぐりこみました。日ごろの訓練で、爆風で目が飛び出て、鼓膜が破れ、鼻から血が噴き出ると言われていたからです。光を見た瞬間、お父さんお母さんおばあちゃん、そして三人の弟の顔が鮮明に浮かびました。「ここで死ぬんだ。」と思った時、とても怖かったです。
地球が爆発したと思うくらいの凄まじい音と、内臓が引っ張りだされるような衝撃を受けました。前の土地がばーっと吹き上がるのが見えて、一緒に私の体も浮き上がったところまで覚えています。その瞬間二階建て木造の工場がつぶれて下敷きになりました。気づいた時には真っ暗で「お母さん助けてー、先生助けてー。」という友達の悲鳴で目を覚ましました。身体を動かそうにも首から足の先までは瓦礫の下敷きになって動きません。頭と手だけが動いて、腕がズキズキと痛んだ時「私、生きているわ。」と思いました。
周りを見ると友達の足が見えたので、一生懸命引っ張りました。初めはまったく反応がなかったのですが「痛いよー助けてー!」と叫びだして、その声を聞いた時は本当に嬉しかった。「生きていた!」と思うのと同時に「ここから出よう」「助かりたい」という気持ちになって「ここを出んと危ないよー!早よ出んと火事になるー!」と私も叫びました。
それから、2人で必死になって体をゆすると、覆いかぶさっていた友達の体が落ちて「これで逃げられる。」と思いました。でも、右足が材木に挟まっていてびくともしない。その時の絶望感は大きかったです。「もう足はどうなってもいい。」そんな思いで、むちゃくちゃにひっぱりました。着ていたモンペはちぎれ、足からは沢山血が出ました。でも、やっと出ることが出来たという嬉しさで痛みは覚えていません。
街は、グレーの渦を巻いているような光景ですっかり変わっていました。魚の腐ったような異様な臭いが鼻を突いて、不思議なほど静かでした。誰かが「広島がなくなってるー。」と叫んでいました。みんな、顔から服まで真っ黒で、ぼーっと立ち尽くす人、わんわん泣き叫ぶ人、頭を怪我している人は血が流れてお岩さんみたいになっていました。私の上にいた友達が一番ひどい怪我で、腕の肉がありませんでした。私の足も骨が見えるほどで、誰かのはちまきをもらい、なんとか止血しました。
しばらくすると、爆心地に近いところから“お化け”がやってきました。資料館にある絵の中にも描かれていますが、手を前にぶらさげて歩いてくる人たちです。腕の皮がずるずるっとめくれて、ぼろ布みたいに見える皮膚、顔が風船みたいにふくれ、唇はめくれあがり、目はつぶれていました。飛ばされたのか、焼かれたのか、皆、裸に裸足でした。その中に、今でも忘れられない中学生の男の子がいます。自分のちぎれた腕を持って歩いてきて、私の目の前で倒れて死んだのです。その子の顔が今でも忘れられません。悲しくて怖い、本当に怖い顔をして死んでいました。彼にもきっと、大きな夢も希望もあっただろうにと思います。
街中に入ると、死体ばかりでした。 私たちは担架で、助けた人を必死に運びました。裸足で踏むことになるのですが、だんだん死体を見ても、気持ちが悪いとか怖いとか思わなくなっていました。人間の心はいつから残酷になるのかなと思います。14歳の女の子が死体をまたいで逃げて、その残酷さを感じる余裕などなかったのです。今を生きるひとたちには、そんな経験を絶対にしてほしくないです。
3日目の午後、私の家がある己斐は焼け残っていると連絡がありました。帰る途中、父と出会いました。父は8月6日の午後から、工場の焼け跡で私の名前を呼びながら探してくれていたそうです。学生たちは全滅という噂が立っていたものですから、死んでいると思っていたところ、元気な私と出会って本当に喜んでくれました。明治生まれの頑固な父が、大粒の涙を流して「よう生きとった、よう生きとった。」と、一緒にいた友達も抱きしめて泣いていました。その父も、1年半後に血を吐いて亡くなりました。これは3日間私を探すため、死体をめくり、抱き起こしながら確認に歩いたとき、残留放射能をあびたからだと思います。
自宅に帰ると、私は歯ぐきから血が出て、熱が出て、食欲が全くなくなりました。8月末まで寝たきりでした。足はパンパンに膨れ上がって歩けませんし、腕の傷は、3日目にウジが湧いてきました。おばあちゃんが、割りばしでウジをとってくれるのですが、それがもう痛くて、今でも思い出すくらい痛かったです。島根県の方からお医者さんが来てくださり、化膿した身体の中から7個のガラス片を引っ張り出してくださいました。ひどかった足の怪我は、自然治癒で時間と共に治っていきました。私の命は、なんとか助かったのです。
語り始めたきっかけ
梶本さんが証言をはじめたきっかけを教えて頂けますか
主人が亡くなり、四十九日の法事を済ませた後、当時中学校三年生の孫娘にすすめられました。「おじいちゃんが亡くなった後、おばあちゃんはひとりで住むん、なにするん、どうするん。」と聞いてきて、「なんとかして生きていかんにゃしょうがないね。」と言ったら「原爆の証言をしたら。」と言いだしたのです。「冗談じゃない。人の前でなんて全然話はできん。」と伝えると、「いいや。私はできると思う。法事の時に最後にみんなにご挨拶したのもちゃんと立派にできたじゃない。」と。その後すぐに資料館の人を紹介されて、証言者としての活動を始めることになりました。
周りの「証言して欲しい。」という気持ちに反して「思い出したくない。」という気持ちがあると思うのですが。
そうですね。はじめから証言をするつもりであったら、もっと覚えていようとしていたかもしれません。
ずっと「忘れよう。忘れよう。」としてきたんです。自分の子供からも「被爆したのはお母さん1人じゃない。広島はみんなじゃけ。」と言われましたし、誰に話してもわかってもらえないと思いました。しかし初めて証言をした時、中学生たちが真剣な顔で話を聞いてくださった。私自身も「これは伝えるべきだ。」という気持ちに変わっていきました。
今伝えていきたい想い
証言をされる中で、何を一番伝えていきたいですか。
証言を始めた16年前と比べて、今は本当に知らない人たちが増えてきました。広島の子も学校の先生もほとんど知らない時代になっている。だから、聞いて、知ってほしい。
当日のことだけではなく、その後、生きていくことがどんなに大変だったか。被爆した人たちが受けた差別、原爆症の苦しみ、食糧難の中で泥棒をしたりヤクザに入ったりして生きてきた子供たちのこと。弱い子はどんどん死んでいって、死んだ子の口の中には石ころが入っていたこと。「私がもしその中におったらどうだったんだろうか。」「親、兄弟がそういう状況に置かれていたら。」と想像力を働かせて感じてほしいです。
そして、自分が出来る方法で伝えてほしい。みんな違っていいんです。音楽が好きな人、絵が好きな人、言葉が好きな人は文に書いてもいい。なんでもいい。なんでもいいから、自分のできる方法で伝えてほしい。50人に証言をしたらその中の1人でいいんです。自分がやりたい、伝えたいという気持ちになってほしいと思います。
ありがとうございました。
2016年6月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。