継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 19 2023.1.6 up
被爆証言をはじめて「ヒバクシャは世界中にいる」ということに気づきました
小倉 桂子Keiko Ogura
被爆者
8歳の時に爆心地から2.4キロの牛田町で被爆した小倉 桂子(85)さん。
海外の人たちに英語で被爆証言を行い、現在も世界の人たちと対話を続けています。
小倉さんが証言をはじめられたきっかけや、今伝えていきたい想いを伺いました。
英語で被爆証言をはじめたきっかけ
小倉さんが英語で被爆証言をされることになったきっかけを教えてください。
夫と親交のあったロベルト・ユンクというオーストリアのジャーナリストがきっかけです。 彼は、原爆製造に関わった科学者たちの行動と思索の跡をたどった「千の太陽よりも明るく」という本を書いた人です。
夫の小倉 馨は、歴代の広島市長の通訳や、平和記念資料館の館長を務めた人で、広島に来る海外の人たちを案内したり、被爆の実相を世界に伝えたりする仕事をしていました。
しかし、私が42歳の1979年に、平和宣言を書いている途中で、くも膜下出血で亡くなりました。長男が12歳、長女が15歳の時です。
本当に突然のことで、当時はどうしていいかわからず、もう全てが終わったような気持ちでいました。
そんな時、ロベルト・ユンクから電話がかかってきたのです。
反原発に関する新刊(原子力帝国)を出版するために来日して記者会見を行うから、私に通訳をして欲しいという内容でした。
「私には、通訳ができる程の英語力がありません。絶対にできません。」と強く断りましたが、
「桂子、君は愛する夫を亡くした痛みと悲しみがよく分かっている。そして、広島の被爆者の苦しみをずっと見てきた。愛する人を一瞬にして奪うものは戦争。その中で最も悪いものは核兵器なんだよ。君は広島を伝える通訳にふさわしいんだ。」と、説得されました。
大きな渦にのみ込まれたようでした。
その後、途切れることなく世界各国から人がやってきて、自分の被爆体験を交えながら広島を案内し、今に至ります。
旦那さまが亡くなるまでは、被爆証言をされたことはなかったのですか?
はい。私は8歳の時に被爆していますが、被爆者への差別を恐れて、原爆に遭ったことは誰にも言うまいと心に決めていました。
私自身、全国から中学生が集まるキャンプに参加した時に「広島から来ました」と言うと、好奇の目にさらされた経験があります。
シャワー室に入ると、原爆のケロイドがあるのではないかと確認しようとする周りの視線も感じました。
広島から一歩外に出ると空気が変わるので、原爆に遭ったことは言いたくありませんでした。
戦後しばらくは、原爆に遭った女性は、まともな子どもが生めないとも言われていました。
結婚式の披露宴で「この花嫁さんは広島出身の方で…」と仲人さんが紹介すると、相手側の親族から「えっ」と言う声があがる。被爆者や、被爆者の子どもだとわかると縁談が破談になる。そんなことが当たり前にあったのです。
原爆が落とされた当日のことは知っていても、その後の差別や、生き残った人たちの心の葛藤については、知らない人も多いですよね。
そうですね。被爆者ではない人にはわかりづらいかも知れませんが、原爆を生き延びたことに罪悪感をおぼえている被爆者は、たくさんいます。
想像してみてください。原爆の後、爆風で家が崩れ、その中に家族がいる。なんとか助けようと引っ張り出そうとするけれど、そこに火が迫ってくるんです。 まだ生きているのに、残して逃げなきゃいけないんです。
「あの時、自分は逃げてしまった。なんで生き延びてしまったのか。」と、自責の念に駆られ、頭から離れない。そんなことをした自分が許せないし、他の人にも言えない。
何も語らず亡くなられた被爆者は、大勢いらっしゃると思います。
私が被爆体験を話す時に気をつけていることは、データ、写真、遺品といった「資料」では見えない 「人の心のうち」を伝えることです。
どんなに悩み、差別に苦しんだか。
被爆者だと隠し、言いたくても言えない状況・苦しみを、想像力を働かせて感じて頂けるように努めています。
ヒバクシャは世界中にいる
海外の人たちへ被爆証言をはじめて、印象に残ったエピソードがあれば教えてください。
被爆証言をはじめて「ヒバクシャは世界中にいる」ということに気づきました。
世界各国のヒバクシャたちが、同じ体験をした広島の人たちなら気持ちを分かってくれる。話を聞いてくれるだろうと思ってやって来るのです。
広島は、ヒバクシャの話を語る場所だと思っていましたが、世界中にいる核による被害を受けた人たちの話を聞くところでもあるのだと気づかされました。
ネバダ、タヒチ、ロンゲラップ島といった核実験のあった場所から来た人たちの中には、甲状腺手術の痕を見せて「核実験のせいで、生まれた故郷を捨てた。」という話をしてくれた人がいました。
アメリカにもヒバクシャはいます。例えば、アトミックベテランズと呼ばれる全米被曝退役軍人会というものがあります。核実験に立ち会った兵士たちが、放射線障害に対する補償を要求し、組織したものです。
あるアフリカ系アメリカ人の元兵士は、袋に入れた自分の歯を見せてくれました。 「こいつは俺の大切な歯なんだけど、核実験のせいで、虫歯もなかった歯が全部抜けてしまったんだ。この歯は、いつも持ち歩いている。」と言っていました。
他にも、「明日は大きな花火が上がる」という新聞の報道を知り、お弁当を片手に小高い丘で核実験を見たことで、放射能障害で亡くなった子供たちがいます。 そのお母さんたちとも会いました。いかに「知らない」ということが危険なことか。
「広島に来て、核の被害を学びなさい、聞きなさい。」というのは非常に大それたことで、私たちは同じ核の被害者です。
核の連鎖による悲しいグループなのですから、一方通行に被害を語るのではなく、お互いに話し合い、理解するべきだと思います。広島の人たちは、世界の被爆者達をつなぐ役割になって欲しいと心から願っています。
海外の人たちと対話をする上で大切なこと
海外の人たちと対話をする上で大切だと思うことを教えてください
立場が違うと、原爆に関しての関心事も違います。
相手が何に関心があり、その人たちの国の状況(政治・経済・歴史)を知り、対話をすることが大切なのです。
例えば、発展途上国の人たちは、復興の過程や、原爆被害の補償を求めるためのグループの作り方、政府への訴え方を知りたくて広島へやってきます。
大虐殺があった歴史を持つルワンダの学生たちは、自分たちの大切な人を殺した相手への憎しみをどのように乗り越えていったのか、報復を考えなかったのかを知りたくて広島へやってきます。
アジアの人の中には「私のおじいちゃんは日本軍に殺された。」と言う人もいるでしょう。そういう人たちに「私たちは被害者なのです。」とだけ言えるでしょうか。
対話をする相手のバックグラウンドを知り、歴史を勉強して、原爆の出来事を伝える必要があるのではないかと思います。
海外の人たちに被爆証言をする中で、工夫されていることはありますか?
工夫はありません。ありのままを伝えています。
そもそも海外に行って話すのと、広島で話すのとでは、聞く人の姿勢が違います。
広島に来る人は、少なからず原爆投下に関して興味関心があるので、話した後の反応も「心に響いた」と感じることが多いです。
しかし、海外で話す時は、原爆投下の事実を知らない人がいることを考えないといけません。知らないだけならいいのですが、原爆投下は良かったと思っている人もいます。
私が最初にアメリカで被爆証言をしたのは、1987年にニューヨークで行われた第一回核被害者世界大会でした。
その時、あるアメリカ人から「原爆を落としたから、日本人は自決しなくてよかった。私たちは日本人を助けたんだ。Congratulation Keiko. 私たちが爆弾を落として。」と言われ、すごく腹がたったのを覚えています。
一方で、第二次世界大戦を知る70代〜90代の人たちへ、カリフォルニアで証言をした時は、「広島・長崎で、原爆によってそんなひどいことがあったことを初めて知った。知らないことや無関心が戦争を引き起こす。ごめんなさい。」と泣きながら抱きしめられたこともあります。
未来へのメッセージ
小倉さんは、海外のリーダーたちにも、英語で被爆証言をされていますよね。
はい。2010年に広島で開かれたOBサミットでは、世界各国の首相・大統領経験者の方々に証言をする機会がありました。
この時、私は、世界のリーダーたちに「ヒロシマ」を伝えることの意味を考えました。
私が怒り、憎むのは、アメリカの一般市民ではなく、原爆投下を決定することに関わった大統領や科学者たちです。
一番悪いのは、命令を下すリーダーなのであれば、世界のリーダーの人たちに、直接訴え、核兵器の恐ろしさを知ってもらわなければいけないと思いました。
リーダーを選ぶのは私たち国民です。
若い世代の方々には、選挙権を持った時に、リーダーを見極め、しっかり考えて選んで欲しいと思っています。
最後に、戦争を体験、経験していない若い世代に向けてメッセージをお願いします。
今、ウクライナとロシアが戦争をしていますが、核兵器の使用が懸念されています。
核兵器があるから、脅しに使われるのです。
核兵器の恐怖を知らない人が増えてきているのではないでしょうか。
全人類が、核兵器と聞いただけで恐怖を感じ、アレルギー反応が出ないといけないと思います。
私は、毎年8月6日に川に行って、亡くなった人たちに「生き残った者は頑張って、あなた達が無念に無残に亡くなったことを世界に伝え、核兵器をなくすために努力します。」と誓っています。しかし、自分は無力で、まだ努力が足りないと感じています。この地球上に核兵器が1発でもあることが、すごく怖いです。
時々、海外の人たちから「僕たちに被爆体験を話すよりも、まず、日本の若者たちを教育してほしい。戦争や核兵器に無関心な人たちがいるし、日本の政府は核兵器禁止条約にサインもしていない。」と言われることがあります。
戦争を体験し、悲惨なものであることを知っている私たちから、直接話を聞くことができない時代がやってきています。
今後は、どうしたらいいのか。
まずは、歴史について知識を得ること。そして、対話を大切にすることです。
相手のバックグラウンドを知り、その立場に立って、話す、討議をする。そして広げていく。
縦軸と横軸のつながりが大切だと思います。
縦軸は親から子供、孫へ。横軸は世界の人へ。
自分ができることから行動して、未来につなげていってください。
子どもを戦争に巻き込んではいけません。
核兵器は、1発でもこの地球上にあってはなりません。
私は今日まで、核兵器をなくすために走ってきました。
今、そのバトンを皆さんに渡しましたから、受け取った皆さんが、次の世代に、そのバトンを渡してくださいね。
2022年7月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。