継ぐ人インタビュー 語り継ぐ
Vol. 14 2018.8.2 up
世界の人たちに、「放射線は、こんなにむごいものだ」と命のある限り訴えていきたいと思っています。
兒玉 光雄Mitsuo Kodama
被爆者
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
爆心地から800mにある広島第一中学校(現在の、広島県立広島国泰寺高等学校。以下、一中)で被爆し、至近距離で放射線を大量に浴びた兒玉光雄さん(85)。
これまでに、21回のがん手術を受け、ご自身の染色体異常を中心に、放射線の恐ろしさについて語り続けています。
8月6日当日のこと
兒玉さんの被爆体験を教えて頂けますか。
私は元々、広島市南区の出汐(でしお)町に住んでいて、そこから一中に通っていました。
しかし、戦況が悪化し空爆が増えてきたので、田舎に疎開することになりました。
疎開先は爆心地から6~7
km離れた戸坂(へさか。現在、広島市東区戸坂)で、父親の友人宅の離れに住まわせてもらっていました。
8月6日当日は、疎開先の戸坂から学校まで歩いて登校しました。
雲一つない暑い日でした。一中の校門は爆心地から800mという至近距離にあります。登校途中、B29偵察機が、一機が飛来したので、7時9分、空襲警報発令されましたが、31分に警報は解除されました。
この偵察機の「広島の空は晴れ」の打電で広島の運命は決まりました。
当時は、1~5年生が学んでいましたが、6月くらいから、上級生は学徒動員で近くの軍需工場へ働きに出ていました。
そのため8月6日に学校にいたのはほとんどが1年生で、320名のうち登校していた307名が7時半を少し遅れて朝礼をし、その時、奇数学級は外で作業を、偶数学級は校舎に残って自習待機を命ぜられ。これが最初の運命の分かれ道でした。
偶数学級だった私は、教室に戻って自習をしていました。
しばらくすると、B29の音はするのに、こんどは空襲警報が鳴りませんでした。この頃は、よく米軍機から市民に向けて降伏を促すビラがまかれていたので、今回もそうなのだと考え、友達とビラを拾いに教室を出ようとしました。
しかし、出ようとした途中でマンガを持ってきている仲間たちの人垣が目に入り、自分も読みたいと思って、私だけ教室の中央に戻ったのです。
まさにその瞬間、大きな火柱が中庭に落ちたように感じました。
もし、そのまま教室を出ていたり、窓際にいたりした場合、命は助かっていなかったと思います。
原爆が落ちた後はどのような様子でしたか。
どのくらい気絶したのかわかりませんが、気が付いたら周りから「助けてくれ。」といった声が聞こえてきました。
その時は、原子爆弾が投下され、広島市内全域が被害を受けているとは思わなかったので、自分たちのところだけ爆撃されたと思い、外から助けが来てくれるものだと思っていました。
しばらく、暗闇の中にいましたが、崩れた校舎の天井部分に薄明かりが見えたので、天井板を破って外に出ました。
すると、学校の目の前にある大きな中国配電ビル(現在の中国電力ビル)全体が燃えていました。できるだけ多くの友達を助けようと動きましたが、実際に助けられたのは5~6人位だったでしょうか。
建物に火が迫り、煙の臭いに死を覚悟したのか、倒壊校舎の下敷きになっていた生徒たちは「天皇陛下、万歳」「広島一中、万歳」と言っていました。その場を断腸の思いで立ち去った時の気持ちは今でも忘れられません。
どうして死んだかもわからないまま、生きたまま焼かれ苦しんで亡くなっていった友達の声が、今の自分の活動を後押ししていると感じます。
学校を出た後、比治山を目指しましたが、行く手は炎のトンネルであきらめ南の方を目指しました。
日赤病院へと群がる人々や赤ん坊に覆いかぶさって死んでいる母親の姿、目玉が飛び出ている人、銃を杖にして生き延びようと必死になっている兵隊さんを見た時「日本は負けた」と思いました。
放射線を浴びたことによる体への影響
爆心地から876メートル離れた木造、平屋、瓦葺の校舎の中で被爆されたということですが、被爆症状はすぐ体に現れたのでしょうか。
はい。立つとすぐ倒れてしまう状態でした。死力を尽くして、火のないところを探して歩きましたが、結局、宇品線の丹那駅の付近に来ると気がゆるみ失神して倒れてしまいました。
もちろん周りには他にも倒れていた人は沢山いたと思いますが、気絶していた私は、偶然にも、近所の農家のおばあさんに助けられ、その方の家に運ばれていきました。
私の制服をみて、同じ中学校に通っている3年生の甥の消息を聞きたかったそうです。
目を覚ました後に、出されて飲んだ冷たい井戸水がなんとおいしかったこと。
生気を取り戻すことができました。まさに、私の命を助けてくれたのは、このお水です。地獄で仏にあったような気持ちでした。夕方まで休ませてもらった後、家族の待つ戸坂まで帰りました。
戸坂駅前から見た広島の天空は燃え盛っていました。
家に帰って、3日3晩、意識もなく眠り続けましたが、その後、歩けるようになりました。
8月10日に、従兄弟が親友を探しに田舎から出てくるというので、広島駅まで迎えにいきました。駅に着くと、間もなく気分が悪くなり、嘔吐を繰り返しました。
従兄弟に連れられ、戸坂の自宅へ帰宅すると、うそのように、症状が治まりました。
残留放射能の影響があったのではないかと思っています。
その後、髪の毛が抜ける、歯茎や、目、鼻、耳の穴から血がでる、血便、血尿、39度台の高熱症状も続いていきました。
8月16日には、紫の斑点が上半身に広がり、左足首が化膿しました。
8月20日には、42度の高熱が出て、医者にも見放されるという経験をしました。
当時は、放射線の影響など町医者には分からなかったので、腸チフスとよく間違われました。
原爆には毒があるというような噂も広まりました。
昔から体の毒にはドクダミ草がきくということで、母はドクダミ草を干して、煎じ薬を作り、体の膿んだところには生のドクダミ草を蒸して、それを患部にはり、膿みをだしてくれました。
爆心地から1キロ以内で被爆しながら生き残った人は、ほとんどいません。
家族の懸命の看病があり、こうして運よく生きながらえることができたと思っています。
放射線を浴びた結果、体が傷つけられたということですが、具体的にどんな影響があったかを教えてください。
私は、本当に運よくあちらこちらで助けられ、それから生き延びることができました。
しかしながら、至近距離での被爆により、放射線という目に見えない凶器で私の体はひどく傷つけられていました。
60歳から、直腸、胃、皮膚、甲状腺と次々に重複ガンを発症していきました。
転移したのではなく、被爆時に放射線によって傷つけられた元々の細胞が次々とがん化していったのです。そのため、これまでに手術を21回も行いました。
最初に、ステージ3から4の大腸がんを患いました。
がんは2か所見つかり、その時に改めて放射線がどれだけ怖いものかを知りました。
至近距離で被爆をしたため、半致死量4.0グレイを超える4.6グレイという死に至る線量を浴びました。その結果、細胞レベルにおいて染色体が転座するなど、染色体が異常な構造になっていたことを、その時に知りました。
どんなに日常の健康管理に気をつけても、傷つけられた染色体が異常になりガン化していくのです。
被爆直後は、原子爆弾や放射線について、プレスコード(情報統制)により何も知らされていませんでした。
放射線の影響であるにも関わらず原因不明の病だと片付けられて死んでいった人、体内の白血球が死滅する白血病で亡くなった人などが沢山いました。
これまで原爆のことを何も知らないで苦しんで亡くなっていった友達や、原爆の後遺症によって亡くなっていった友達のために何もしてこなかった自分にバチがあたったのだと思いました。
これが、私の大きな転機となり65歳から被爆証言をするようになったのです。
未来に伝えていきたいこと
被爆証言を通して、ご自身の中で何か変化はありましたか?
不思議と気力が充実していきました。
2016年は、米国ハワイで「世界放射線科学者学会」に出席し、証言を行いました。
顔を合わせて伝えれば、原爆や放射線の恐ろしさをわかっていただけると、その時、確信しました。
その反面、自分の伝える力が足らないとも感じました。
被爆後苦しんで亡くなっていった友人たちのことを思うと、本当に悔しい気持ちでいっぱいになります。
死んでいった仲間の助けで私は生き延びている。
原爆や放射線の実態や恐ろしさを世界に少しでも知っていただくのが、私の役目かもしれません。私と同じような苦しみを味わいながら生きていく人間をこれ以上増やしてはいけないのです。今は、伝えることが自分自身の使命となっています。
ご自身の被爆体験を伝えて行く中で、私たち第3世代や後世に伝えていきたいことはなんでしょうか?
原子爆弾は、落とされて70年以上たった今も人を苦しめる、人類史上最悪の非人道性を持っていると思います。その放射線被害の実態が、あまりに知られていないと思います。
73年前に被爆したとき、私の幹細胞を痛めた放射線は、時間をかけて健全な血液を造らないようにしました。きっかけは、私の左腎臓がんが発見され、手術をしようとした時、血小板が異常に少ないことがわかりました。原因を調べたら、骨髄異形成症候群(MDS)でした。人体の血液製造工場を放射線が破壊したのです。子供も作れなくなりました。
私は放射線がどれだけ怖いものかを身をもって知りました。
放射線は目に見えず、普通の人たちにはその恐ろしさがわかりません。
しかし現在も、核実験や原発事故などで被爆者が世界各国に広がっている現実があります。
そのことに気づいてほしい。このままだと人類は破滅してしまいます。
核と人類は共存できません。地球上で私のような人間を作ってはいけないのです。
とにかく私は、世界の人たちに、「放射線は、こんなにむごいものだ」と命のある限り訴えていきたいと思っています。
2018年8月 取材
このサイトについて
「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」は、第三世代が考えるヒロシマ「 」継ぐ展から生まれたプロジェクトです。
2015年から被爆者や平和活動を行っている人たちにインタビューを行っています。
今、ヒロシマを語り継いでいる人たちは何を想い、何を伝えようとしているのでしょうか。
そして、戦争を体験したことのないわたしたちは、何を学び、考えていけばよいのでしょうか。
知らなかったこと、深く考えてみようと思ったこと、現在とつなげて気づいたこと、そして、これからの未来について思うこと。
インタビューの記事をきっかけに、身近な人たちと話し合うきっかけとなることを願っています。